Coffee Break Essay





 「人生の風物詩」

 風物詩、なんと心地よい語感だろう。文字どおり「風」と「物」が織りなす「詩(うた)」、情感あふれる言葉ではないか。

 風物詩とは、その地域で長年にわたって行われている行事で、その行事が始まると季節の到来、または季節の終わりを喚起させられる、そんな風土に根づいた行事である。それは行事だけに限らず、食べ物や動植物など多岐にわたる。

 金沢の兼六園では、毎年十一月になると、雪の重みで松の枝が折れないように支柱を立て、そこから放射状に縄を張って松の枝を吊る。この「雪吊り」が、北陸に冬の到来を告げる。

 京都の南座では、年末恒例の歌舞伎「顔見世(かおみせ)興行」を前に、十一月二十五日ころに出演者の名前を書いたまねき看板を正面に掲げる。この「まねき上げ」は、師走の慌ただしさの到来を呼び起こし「もうそんな季節になったのか」と京都の人々の気持ちを急き立てる。いずれもその時期になると、決まってテレビのニュースで取り上げられる。ほかにも東大寺二月堂の「お水取り」や成田山新勝寺の節分会(せつぶんえ)、青森のねぶた祭り、隅田川の花火大会など、全国各地あげればきりがない。

「徳島での阿波おどりの野外練習は五月から始まり、本番は八月十五日で終わる。市内の川べりなど各所で夕方になると聞こえ、夏に向け次第に大きくなり本番で最大となる鳴り物の音がぴたりとやむ。この寂しさが秋の訪れを知らせてくれる」
 平成二十年八月十一日の日経新聞「文化」欄に、阿波おどり魂代表・南和秀氏が寄せた一文である。風物詩とは、まさに季節のアクセントである。

 だが、あまり感心のできない風物詩もある。それは、ハロウィン、クリスマス、恵方巻き、バレンタインデーなどだ。コマーシャリズムに踊らされ、過剰に振り回されてはいまいか。父の日、母の日など、片親のいない子をどれほど傷つけていることか。そんな心ない日は、必要ないだろう。

 十一月の声を聞くと同時に、いきなりクリスマスソングが流れ出し、イルミネーションが街にあふれるのは、いかがかと思う。せめて、十二月に入ってからにして欲しい。いくらなんでも早すぎる。クリスマス自体は悪くはないが、いささかウンザリしてしまう。クリスマスの煌(きら)めきと喧騒に、十二月十四日の赤穂義士の討ち入りがかき消されてしまっている。日本人としては、残念なことだ。 クリスマスが終わるとすぐに正月が来る。その後はバレンタインデー、ひな祭り、ホワイトデーだ、端午の節句だと、たたみかけてくる。一年がどんどん加速し、猛烈なスピードで過ぎ去っていく。これはコマーシャリズムの企画に踊らされるせいというよりは、こちらの加齢の仕業ということも多分にある。

 四十代のころ、ある女性から、
「四十歳を過ぎたあたりから、あっという間に一年が過ぎるんですが……」
 という話をしたら、
「あなたね、あまいわよ。六十を過ぎたら、そのスピードが倍になるわよ」
 と言われた。人間は歳を重ねるにつれ、制御不能な勢いで歳月が過ぎ去るようだ。人生のゴールに向けたラストスパートなのだろうか。

「夕立が肌に当たる感触と、雨粒が地面をたたいて巻き上げるほこりのにおいは、瞬時に遠い夏の日の記憶をよみがえらせる」(平成二十年八月二日 日経新聞コラム「春秋」)
 年齢を重ねると、人は季節の移ろいに己の人生を重ねてみるようになる。
 身体的なピークは完全に過ぎ去った、そう感じたのは三十代になってほどないころだった。気づいたら自分より年上の大相撲の力士がいなくなり、四十代になって野球選手も見かけなくなった。
 五十代になった今、人生とは老いの中でその大半を過ごすものなのだ、ということに改めて気づかされている。人生、八十代まで生きるとすると、二十代までが血気盛んな時期で、残りの五十年以上の歳月を老いとともに生きることになる。人生とはそういうものなのだ、ということを今さらながら思い知らされている。

「――八月の中旬、立秋から間もないこの時期は、朱夏の熱暑と高揚が、わずかな風の揺らぎで、白秋の清澄と沈静へと変わる。夏休みの後半に当たるこのころ、若者たちは奇妙な焦燥感におそわれるという。熱狂と怒とうの世界にまだ十分浸っていないうちに、秋風が日常への復帰を促す。それでも、ささやかな冒険や淡い思い出を積み重ね、胸の奥にしまい込めば、ひと夏の経験ができ上がる。それらはいずれ『遠い夏の日』の記憶として、夏ごとによみがえる」(平成十一年八月十三日 日経新聞コラム「春秋」) 夏の夜空を仰ぎながら、打ち上げ花火の消えゆく刹那(せつな)に、死後の世界の闇を見ている。歳をとるということは、自分の持ち時間を刻々と失っていくことにほかならない。だからそんなことを考えてしまうのだろうか。

 夏の終わりに人生の黄昏を覚え、ふとした拍子に遠い昔の記憶が甦る。過ぎ去った思い出は、ほとんどが美しい。人間、嫌なことは忘れるようにできているのだろう。思いがけず立ち現れる光景に、懐かしさが胸に満ち、思わず涙することもある。


               平成二十七年一月  小 山 次 男