Coffee Break Essay




 夕焼け


 童謡「赤とんぼ」。先日、何十年かぶりでこの歌を耳にした。

  夕やけ小やけのあかとんぼ 負われてみたのはいつのひか

  山の畑の桑の実を 小篭に摘んだはまぼろしか

  十五で姐(ねえ)やは嫁に行き お里のたよりも絶えはてた

  夕やけ小やけの赤とんぼ とまっているよ竿の先

 改めて歌詞を読むと、郷愁と切なさが渾然一体となり、現実世界が一瞬にして遠のく。とりわけ三番のくだりは胸に迫る。この歌は、三木露風が大正十年(一九二一)に子供のころを過ごした兵庫県揖保郡龍野町(現たつの市)への郷愁から作詞したものだという。今から一〇〇年近くも前のことになる。

 「赤とんぼ」ほどの情緒はないが、夕焼けを目にすると思い出す光景がある。私は昭和三十五年(一九六〇)に北海道の小さな漁師町様似(さまに)に生まれている。一帯は日高昆布とサラブレッドの一大生産地である。

 海沿いに暮らしていると、当然ながら海に沈む太陽を毎日のように目の当たりにする。真っ赤な太陽が水平線に沈もうとする刹那(せつな)、海が黄金一色に染まる。幼いころからそんな光景を当たり前のように目にしてきた。

 太平洋岸沿いにへばりつくように伸びるこの町では、えりも岬の方向、町を見下ろすアポイ岳から昇った太陽が、やがて大きな夕日となり、親子岩へと落ちていく。地元の人は「様似はアポイで始まり、親子岩で一日が終わる」そんなふうに表現する。

 母の実家と自宅との間は二キロほど離れており、海岸沿いの道を通る。どこへ行くにも海沿いの道しかない町である。当時、母の足は自転車だった。まだ、一般家庭に自動車が普及していない時代、五十数年前のことである。初めて町に信号機がついたのは私が小学校五年の時で、自宅に電話が来たのも同時期であった。何もかもが遅れていた。

 その日も母の運転する自転車の後ろに私が座り、妹が前に乗っていた。実家に顔を出していた母が、父が仕事から帰ってくる時間が近づき、慌てて自転車を漕いで帰る、そんな構図が目に浮かぶ。国道とはいえ、舗装された道はほんの一部で、ほとんどが未舗装のガタガタ道だった。夕暮れの不安な気持ちとも相まって、怖い思いを抱きながら乗っていた。

 その日はひときわ海が真っ赤に染まっていた。

「ねえ、おかあさん、海に手ぇ入れたら熱いの?」

 思わずそんなふうに訊いていた。太陽が海に落ち、熱くなっていると思ったのだ。そのとき母はどのように説明したのか、定かには覚えていない。語りかける母の横顔が赤く染まっていたのを覚えている。あんなに焼けた空と海を見たのは、後にも先にもない。夕焼けが赤すぎて怖かった。

 それから十年ほど後のことになる。この海に向かって佇む女性の姿があった。観音山の下の浜だった。親子岩が目の前にある。その人は四十代半ばくらいで、その服装から明らかに地元の人ではないとわかる女性だった。

「ほら、お盆に内地の学生がおぼれたっしょ、母親だってよ。かわいそうに」

「お盆だから、地獄の釜のフタ、あいてたんだべさ」

 そんなことがささやかれていた。陽が沈み、空が群青色になるまで立つ姿が、数日あったという。後を追わないように遠巻きに見守る地元の人の姿があった。

 私が小学五年まで住んでいた家は、三方が牧場に囲まれた町立の公営住宅だった。自宅の前には広い牧場が広がっており、そこから直線で二〇〇メートルほど先が海だった。その牧場では数頭の乳牛と農耕用の馬を飼っていた。その後、サラブレッドに切り替わり、一時期七面鳥も飼っていた。

 夕焼けの残照が再び空を明るく照らし出す。そんな時間になると、母に手を引かれてよく牛乳を買いに行った。搾乳の時間なのだ。薄暗い牛舎では、裸電球の下で乳搾りが行われていた。搾ったばかりの牛乳を、持参した一升瓶に入れてもらう。いくらで買っていたのかはわからないが、破格の値段だったに違いない。

 持ち帰った牛乳は、いったん沸騰させ、殺菌して飲む。沸騰させたときにできる牛乳の膜は分厚く、箸で突いてもなかなか破れなかった。冬の寒い時期は、温めた牛乳に砂糖を入れ、バターを落とした。それが私の冬の味だった。

 私がまだ三歳にもならないころ、この牧場で悲しい出来事があった。近所の小学生の女の子が亡くなったのだ。その子は、オケケと呼ばれていた。オケケとサッちゃんは仲のいい友達だった。浜で遊ぶことになり、私を連れ出そうとサッちゃんが私を借りに来たのだ。オケケは、我が家から数十メートル先の牧場わきの道端で、サッちゃんを待っていた。

 その日、私はあいにくの風邪気味で発熱しており、母が誘いを断わっている。二人は私が赤ん坊のころから時々私を借りに来ており、抱いたり負ぶったりして連れ出していた。むかしは、そういう大らかさがあった。

 サッちゃんが一人で戻ると、オケケは道路脇に倒れており、すでに息絶えていた。感電死だった。サッちゃんを待つ間、オケケが牧場の周りに張り巡らされていた鉄線に触れてしまったのだ。鉄線には普段、微弱な電流が流れていたのだが、それが何かの間違いで過剰電流が流れていた。オケケはそれに触れてしまったのだ。

 夕暮れ迫るなか、多くの人だかりの中に、母に抱かれた私もいた。事件などない田舎で、警察の現場検証が行われていたのだろう。私は太い毛糸で編まれた目の粗いブランケットのようなものに包まれていたのだが、妙に肌寒かったのを覚えている。母やサッちゃん、オケケの母親の様子などの記憶は一切ない。ただ、騒然とした雰囲気の中、肌寒かったのを覚えている。私の幼いころの記憶で最も古いものが、この出来事であった。

 夕焼けを怖いと思うのは、このときのことがあるからなのかも知れない。

                   平成三十年九月   小 山 次 男