Coffee Break Essay



  『夢が……』


落胆は、考えていた以上に大きかった。

一年もの間、大きな期待に胸膨らませ、
時に過大になるその膨らみをグッと押えながら、指折り日々を過ごして来た。
それは私にとって明日を生きる糧、未来に輝く希望であった。
だからどんなに辛い日常が迫ってきても、耐えて来られた。
心の支えだった。

六年前の冬、妻が唐突に精神疾患に陥った。
うつ症状が妻に生きる意味を見失わせ、妻は自傷行為を繰り返し始めた。
また、しばしば巻き起こる妄想に苛(さいな)まれ、
それは私に対する暴力に発展していた。
私は幼い娘を抱え途方に暮れた。
家事とサラリーマンの板挟みの生活の中で、追い討ちをかけるように胃潰瘍やギックリ腰が私を襲い、にっちもさっちも行かない状況に追い込まれていた。
このままでは共倒れとなってしまうという危機感から、私は寝る前の僅かな時間を利用してパソコンに向かい始めた。
私の中で浮遊する思いの断片を綴るようになった。
それはやがてエッセイに発展し、いつしか私の逃げ場となっていた。

そのうちに、自分の書いたものが世間一般に通用するものなのだろうか、という疑念が芽生え始めた。
そこで公募雑誌を見ながら、同人誌が募集していた懸賞エッセイに応募したのである。
結果、その作品(『祝電』)はその年の最優秀賞となり、平成十五年度発行の同人誌に掲載された。

そして私はその受賞を機に、同人誌に所属した。
主催者がエッセイの添削指導をしてくれるというのが決め手となった。
さっそく次作『三ダース軍曹』を送り、平成十五年五月の表彰式に臨んだ。
その席上、主催者のA先生から前年に発行された『ベストエッセイ集』を見せられ、
あなたの作品を来年の『ベストエッセイ集』に載せてあげましょう、という予想だにしない言葉を頂いた。
私は落雷に打たれたように硬直しながら、A先生を見入ってしまった。

『ベストエッセイ集』とは、日本エッセイストクラブが編集し、文藝春秋から毎年出版されている本である。
その応募規定は、その年に発行された新聞・雑誌に掲載されたエッセイが対象であり、
今回、同人誌に私のエッセイが掲載されたことにより、応募資格を得たのである。
その時、次作の『三ダース軍曹』を秋発行の同人誌に掲載するように(年二回自作を掲載できる)、とのA先生からの指示を頂いた。
『三ダース……』も応募の俎上に載せ、受賞作と『三ダース』のどちらかを『ベストエッセイ集』に載せようというのだ。
間違いなく、大丈夫ですからという心強い言葉を頂いた。
そのとき初めて分ったのだが、A先生は日本エッセイストクラブの会員であり、『ベストエッセイ集』の選考委員を務めていた。
現にそのとき先生は、その年の七月発行の『〇三年版ベストエッセイ集』にあなたが決まりましたよ、と同人会員の女性に告げていた。

私はすっかり有頂天になってしまった。
毎年六十名近い作家、それも高名な現役作家の作品とともに、自分の書いたものが本になるのである。
しかもこの単行本は、三年後には文庫にもなる。
それは私の「はるか遠くにある夢」であった。
その「夢」をいきなり眼前に差し出されたのである。夢ではないか、と何度も疑った。

実は、エッセイを書き始めて間もないころ、私の書いているものがエッセイの態をなしているのだろうかという疑念が湧き起こり、通勤電車の中でエッセイを読み始めていた。
それが『ベストエッセイ集』であった。
私はこのエッセイの出版が始まった八三年版から現在までの二十冊近くを通読し、
エッセイの要領を自分なりに掴もうとしていたのである。
この本を読み進むうちに、いつしかこのベストエッセイに載ることが私の大きな夢となっていたのだ。

表彰式の帰り道、私は身の置き所のないような喜びに包まれていた。
苦しくてもこつこつとやっていれば、いつかその努力は報われるのだ、と夢の中を歩いて帰った。

その後、A先生から何作かのエッセイの添削指導を受けながら、「ベストエッセイ、『祝電』もいいが『三ダース』も捨てがたい」という内容のコメントを二度ほど貰っていた。
そのたびに「先生にお任せします」と返信していた。

A先生はこの同人誌のほかに全国に文章指導の教室をもっており、その生徒数は三〇〇名にのぼるという。
だが、それまで体力を誇ってきた先生も年齢には勝てず、持病が悪化し短気の入院を余儀なくされた。
時を同じくして先生の受け持ち教室の文集作りが始まった。
それが「新幹線のダイヤ並み」という先生の多忙に拍車をかけたのである。
私もことあるごとに、あからさまなお願いを避けながらも、宜しくお願いしますというニュアンスのメッセージを先生に送っていた。
年明けの一月中旬が締め切りとなるベストエッセイを意識して、「念願のベストエッセイ、楽しみです」と思い切って年賀状にしたためたのが最後であった。

そして満を持してこの五月、二度目の表彰式に臨んだ。
『三ダース軍曹』が同人間の投票で決まる年度賞の佳作に入選したためである。
「先生は、近藤さんの『三ダース』を年度賞にしたかったようですが、皆さんの投票結果を曲げることはできませんので……」という同人スタッフからのメールを貰っていた。

先生が会場に現れて、私の緊張は極に達した。
もはや受賞式は、私にとって二の次になっていた。
前年も年度賞の佳作の会員がベストエッセイ集に入選していたのである。
今か、今かと鼓動は高鳴った。だが、いくら待っていても先生からの発表はなかった。

先生は講評のなかで『三ダース』を激賞して下さった。
だが私の心は別の場所にあった。もしや、ダメだったのか……。
その後、食事をしながらの歓談の中で、会員の中からベストエッセイ集の話が出た。
先生は私の二つ隣の席にいた。
「ちょうど話が出ましたので、……本年度のベストエッセイ集にはOさんが選ばれました」という先生の声をひどく遠いところで聞いた。
私は再び落雷に打たれたのである。

夢だろ、どうか夢であって欲しいと願った。
確かにOさんの作品は、同人誌の中で群を抜いて起立していた。
私がどう足掻いても到達できない域の作品であった。
そうか、やっぱりダメだったンだな、と静かに思った。
一回りも二回りも萎んで行く自分を感じていた。

後で先生に声をかけられ、「『三ダース』ねぇ、これ、何とか活字にならないものかね。いいンだがなぁ」と言う先生を、当て馬のようなマヌケな顔で眺めていた。
それは、今年、活字になれば、来年のベストエッセイ集に載せられるのに、という先生の優しい言葉であった。

先生の頭からは、何もかもがスッポリと抜け落ちていたのだ。
いや、先生は、最初から私が応募するものと思っていたのだ。
私は、ただ有難うございますと頭を下げるしかなかった。

ベストエッセイ集への応募には、自薦と他薦がある。
私は当然先生が推薦してくれるものとばかり思い込んでいたのだ。
だが、先生は七十八歳であった。そして、忙し過ぎた。
話を聞くと、同人会員の人たちはみな自薦で応募しているようであった。
人生、甘くはなかったのである。

表彰式の帰り道、私はひどく打ちひしがれていた。
もう私には、前二作を超えるものは書けないだろうと考えていた。
私の手元には、この四年間に書き溜めたエッセイが一〇〇編近くある。
だが、今回の二作を凌ぐものはひとつもなかった。
一旦、同人誌に上(のぼ)したものは、別の公募には使えない。

この一年は、一体何だったのだろう、とひどい脱力感の中で帰りの電車に揺られていた。
その時、表彰式でもらった表彰状と記念品を会場に忘れてきたことに気づいて、いきなり現実に引き戻された。
そのままにしておくことも出来ず慌てて取って返したのだが、その足取りはひどい重いものであった。
だが、家でひとり待っているであろう妻のことが気にかかり、小雨の道を急いだのである。

この話を妻にできたのは、しばらく後になってからのことであった。

というエッセイを書いた一年前のことを懐かしく思う。
あの時は、失意のどん底にいた。もう何も書けないと思っていたのだ。
今となればとんだ笑い話である。

平成十七年、私はまばゆい新緑の中を三たび表彰式に出かけた。
夢がとうとう現実のものとなったのである。諦めなくて本当によかった。
夢には、叶う夢と叶わぬ夢がある。
だが、夢は見なければ、叶わないのである。そのことを痛切に噛みしめていた。

かくして私は、新たな夢に向かって顔を上げたのである。
ああ、それにしても今回の夢は、痛かった!


                    平成十六年五月  小 山 次 男