Coffee Break Essay

 『夢―春の小川』


「どいた、どいたッ!」

 天秤棒を担いだ若者が、威勢のいい掛け声を残して走り去ってゆく。桶の中には、揚がったばかりの魚がこぼれんばかりに入っている。橋の袂には、艀(はしけ)から荷揚げを行う人夫たちや、高札に見入る町人の姿も……

 東京がまだ江戸と呼ばれていたころ、人々の往来で活気に溢れる橋があった。そこを流れる川も、橋の名が冠されている。江戸を代表する橋梁、日本橋である。当時、日本橋は東海道や中仙道など五街道の出発地点であり、現在も橋の中央に「道路元標」と記されたプレートが埋め込まれ、日本の交通の起点となっている。

 だが、広重の絵をイメージして日本橋を訪れると、とんでもない失望を味わうことになる。

 明治の終わりに掛け替えられた現在の石橋は、日本を代表する橋梁のひとつであり、国の重要文化財にもなっている。しかし、その日本橋が「二十一世紀に残したくない風景」とか、「東京の恥部の代表格」などとささやかれて久しい。それは、全川にわたり高速道路を被いかぶせてしまった功罪による。

 昭和三十九年、東京オリンピックに間に合わせるべく、工事は急ピッチで進められた。国内初となるオリンピックは、高度経済成長の上げ潮に乗る日本が、国家の威信をかけて取り組んだ、戦後最大のプロジェクトだった。日本中がオリンピックに沸騰した。

 その日本橋の上に立つと、ガード下にいるような感覚がある。しばらく佇んでいたい、という感興は湧かない。まして往時の賑わいを感じ取ることなど不可能なことだ。薄暗い中、車の騒音だけがむなしくゴーゴーと響いている。頭上の高速道路の存在もさることながら、このあたりが感潮域にあるため川の流れが常に淀み、暗く汚いせいもある。さらに、都心を流れる川ゆえ、両岸には寒々としたビルの壁面が、直立護岸のように立ちはだかっている。

 日本橋川は、神田川から分流し、隅田川に合流する全長わずか四・八キロの人口の川である。黙殺された川といってもいい。むしろ頭上の高速道路のほうが、「都心を流れる川」にふさわしい向きもある。東海道の終着点に当たる、京都・鴨川の三条大橋とは、対照的な風情を成している。

 その日本橋が、都市河川の景観問題の象徴的存在として、再び脚光を集めつつある。

 かつて東京は、水の都といわれていた。都心部を網の目のように大小の河川が流れ、その先には東京湾があった。江戸前は、これら河川の恩恵によるものである。

 中小河川の多くは、武蔵野台地を源泉としている。たとえば、神田川は三鷹の井の頭池であり、石神井川は小金井公園。善福寺川や妙正寺川の源泉も全て隣接している。閑静な高級住宅地となっているこれら地域は、かつては武蔵野台地の豊穣な森で、泉がコンコンと湧く湧水域だった。

 ほかにも小川は無数にあった。だが、急速な都市化の波に呑まれ、生活排水により汚染されたそれらの川は、全て埋め尽くされてしまっている。だが、完全に消失したわけではない。それらの川は暗渠(あんきょ)と化し、現在もアスファルトの下を流れ続けている。

 都心を歩いていると、不自然に蛇行した歩道や、橋の欄干がアスファルトの中から顔を出しているのを目にする。その下には、すでに名前も忘れ去られたかつての小川が今も流れている。

 渋谷から東急東横線に乗ると、線路に沿ってコンクリートに囲まれた側溝が見えてくる。川底のコンクリートが茶色に変色し、殺伐とした光景である。目を背けたくなるこの川は、新宿御苑を源泉とする渋谷川である。上流の原宿付近では、川跡に沿ってお洒落な店が軒を連ねているが、足元に川の存在は感じ取れない。

 この渋谷川は、ハチ公前の渋谷交差点付近の地下で、明治神宮を源泉とする宇田川に合流するのだが、この宇田川の支流にあたる河骨(こうほね)川が、唱歌『春の小川』に歌われたあの川である。

「春の小川はさらさらいくよ/岸のすみれやれんげの花に……」

 代々木付近をぶらりと散歩していて、この歌碑を偶然にも発見したとき、私は息を飲んだ。歌詞にあるような田園風景は、どこにもない。そればかりか、凄まじい轟音と共に、目の前を小田急線がひっきりなしに行き交っている。あの小川は、こんなところにあったのか……。暗渠と化した「春の小川」との出会いは、映画「猿の惑星」で、砂に埋もれた自由の女神が映し出される、あの衝撃的な冒頭シーンを彷彿とさせた。河骨川がやっと顔を出すのが、先に上げた渋谷なのである。

 私は、北海道の片田舎から上京するまで、春のうららの隅田川は、小舟がやっと行き来できるほどの小さな川だと勝手に想像していた。しかも岸には土手があり、タンポポや菜の花が咲き乱れ、陽光を川面に映すのどかな川を連想していた。それは「春の小川」同様、教科書の挿絵からのイメージである。入社式で集まった会社の会議室から、高速道路越しにドス黒い殺伐とした川が見えた。それが隅田川だと教えられ、驚いた。これから始まる東京での生活の現実を垣間見た思いがした。

 私は、いつの日かこれらの川が浄化され、人々に潤いと安らぎを与える存在になって欲しいと願っている。だが、林立するビルや高速道路を仰ぎ見ると、その重圧感に押し潰され絶望してしまう。どうやってこの巨大な建造物を取り去るのだ。とうてい無理だろう、と。

 だから、ついこんなことを夢想してしまう。

「二〇五〇年から都心を流れる川に命を吹き込む計画が実行に移され、首都高速道路は全線地下高速となることになった。それに合わせ、渋谷川、日本橋川、神田川などの川沿いのビル群は、二十メートルほどスイッチバックされる。暗渠が取り払われた川沿いには、遊歩道が設けられる計画だ。完成は、江戸開府五百年祭最大のプロジェクトとして、二一〇〇年を予定している。当初、首都とはいえ国家予算にも匹敵する資金の投入に、大きな反発も見られたが、第二次関東大震災にて壊滅した東京都民に対する同情論が隆盛をなし、画塀のモチと相手にされなかったこの計画が、にわかに日の目を見るに至ったのである」

 私は決して積極的な自然保護主義者ではない。ただ、隅田川は、春のうららの隅田川であって欲しいし、渋谷川に注ぐ河骨川は、サラサラ流れる春の小川であってもらいたいのだ。

 文部省唱歌には、かつての日本の美しい風景が数多く織り込まれていた。それは日本人の心の原風景であり、その景観の中で人々は育まれ、暮らしてきた。現代とマッチしない、時代にそぐわないという理由で、唱歌を自ら抹消するのは本末転倒、自傷行為に等しい。昨今の若者の心の闇に起因する凶悪事件と、唱歌の消失を結びつけるのは、強引過ぎるだろうか。

 唱歌に歌われたかつての風景を蘇らせることが、日本人の心≠取り戻すひとつのきっかけになるのでは、と思うのだが。

                     平成十四年三月  小 山 次 男

 付記

 平成十九年六月 加筆