Coffee Break Essay


 『夜を走る』

 

 毎年、夏になると走りたくなる。梅雨に入って蒸し暑く不快な日が続きだすと、落ち着かなくなり、真夏日が始まるころには、外に飛び出している。

 私が走るようになったきっかけは、学生時代に遡る。夏の最高気温が三十度に達しない北海道の片田舎に生まれた私が京都の大学に進学し、五月早々に暑さでダウンしてしまった。食欲が減退し、得もいえぬ気だるさに襲われ、どうにもならなくなった。変な病気ではないかと、恐る恐る近所の病院へ行ったところ、夏バテと診断された。

「ここんとこの暑さで、ジュースばかり飲んでるのとちゃうか」

 私の健康保険証の住所をチラリと見た医者がニヤリと微笑んだ。

「夏はまだ二カ月先やしな。今からバテてどないするんや」

 私の田舎は、七月上旬までストーブに火が入る。京都の五月は、故郷の真夏よりも暑かった。寒冷地仕様の私にとって、京の油照り≠ヘ、熱したフライパンの中で炒られるような炎熱地獄であった。

 このままでは身がもたない。アパートのあった伏見の深草から京都駅まで、毎夜、往復五キロのジョギングが始まった。最初は学生アパートの住人には明かさず、密かに走っていたのだが、すぐに仲間に知れるようになる。

「私も走りたいわぁ。ええやろ」

 最初に現れた伴走者は、美容師見習いの十九歳のガミさんであった。金髪のアフロヘアーに紫のタンクトップ、真っ赤な短パン姿で現れた彼女を見て、狭心症の発作かと思うほどドキッとし、膝がガクガクと震えた。

 二人で走っていると、通りすがりのヤンキー風の男からヒューヒューと口笛を吹かれたり、暴走族まがいの若者に冷やかされた。

「ネエちゃん、ええ走りしとるやないかぁ」

 と叫びながら、バイクで私たちの周りをぐるぐる回るのである。私は恐ろしさに身を縮めたのだが、太股を張り上げ、ブルンブルン胸を震わせて走るガミさんは、そんな賊に怯(ひる)むどころか、

「なにしてけつかるネン、このドアホが! 失せろッ!」

 凄まじい迫力で退散させる。彼女は生粋の京女であるが、暴走族のリーダーの女といった風貌だった。アパートに入って間もなくのころ、遅れて入居してきたガミさんを見た我々は、暗黙のうちにあまり近づかない方がいい人だと思っていたのである。だが、彼女はとても人懐っこく、すぐに我々と打ち解けた。やがて、ガミさんの父君が、京都御所の警固に当る皇宮警察官であることを知った。

 しばらくの間、ガミさんと二人で走っていたのだが、次第にアパートの仲間が加わりだした。スキー部が走り出し、続いて野球部、剣道部が加わり、最後には古美術研究会までが参加する集団ジョギングとなった。アパートの男たちはみな学生で、女の子は美容師の見習いやOLなどで、全員二十代前半の若者であった。

 私は中学時代に野球をやっていたので、そこそこ走れたのだが、現役の体育会系にはかなわなかった。

 だいぶん走れるようになったあるとき、伏見桃山城まで走ってみようと思い立った。そのときは一人であった。

 師団街道を南下し、桓武天皇陵の脇を通って伏見桃山城に至ったまではよかったが、山道を下ったところで道に迷った。来たときとは違う道を走って帰ろうと思ったのがいけなかった。山の中の暗い夜道を走っているうちに方向感覚を見失い、気がついたら小栗栖(おぐりす)に出ていた。そこは、伏見からひと山越えた山科(やましな)で、つまりアパートとは逆方向に向かって走っていたのである。そこから大きく迂回し宇治に出て、やっとアパートに辿り着いたときには、午前零時を回っていた。

 途中から雨が降り出し、股づれと足の痛みでヨレヨレになっていた。二十キロ近い距離を走ったことになる。人生最長の走行距離である。

 東京に就職してからも早く帰宅した日や、休日の夜に走るようになっていた。独身寮が川崎の溝の口だったので、駅周辺や多摩川縁をよく走った。

 結婚してからは子供がすぐにできたことと、帰宅時間が遅かったので、何年も走れないことが続いた。再び走り出したのは、四十歳を過ぎてからである。体力の衰えを感じるようになり、このままではよくないと思ったのである。なにより、私が三十八歳のとき、妻が精神疾患に陥り、こちらの精神も疲弊して、共倒れになる恐れを感じたのだ。

 朝は苦手なので、相変わらず夜に走っている。京都、多摩川、そして今は練馬である。夕食を極端に軽くし、八時半ころから近所を走る。三キロに満たない距離を週に四、五日のペースで走るのだが、四十九歳の身にはそれでもきつい。時々、妻や娘が伴走者として自転車でついてくる。だが、以前のようには走れない。夏場しか走らないのと、喫煙がいけないのだろうと考えている。

 走っている途中で、スポーツジムの前を通りかかる。見上げるビルの窓際で、数十人の人たちが窓に向かって黙々と走っている。ベルトコンベアーの上を走って、何が楽しいのかと、貧乏人の僻(ひが)みが頭をもたげる。

 住宅街を走っていると、カレーの匂いや、焼き魚のいい匂いが流れてくる。どこの家だろうかと、思わず匂いの方向を追う。網戸越しの窓から突然、大きな歓声が沸き起こる。ジャイアンツがホームランを打ったなと思う。日本でサッカーのワールドカップが開かれていたときは、どこの家からも実況中継が大音量で聞こえていた。ドッと沸く歓声や大きなため息に、テレビを囲む人々の姿が浮かんだ。ときには、ヒステリックな夫婦喧嘩もあれば、風呂場から子供たちの声が聞こえてくることもある。

 途中、長いブランクがあったものの、三十年近くも走っていることになる。走るのを楽しむというより、修行僧のような形相で走っている。はたしてこのジョギング、いつまで続けられるか。走れなくなったらどうしよう、という不安が過ぎる。そのときは歩けばいいと今は思っている。

 

               平成二十一年一月 大寒  小 山 次 男