Coffee Break Essay




 やさしさ


 平成二十三年、私は三十二年ぶりに北海道での生活を再開した。

 東京を離れる前に、近所の商店街のクリーニング店や薬局などへ引っ越しの挨拶をして回った。希薄な付き合いとはいえ練馬には二十年もいたので、それなりに顔見知りがいた。私が転勤の旨を告げると、誰もが一様に驚き、

「ねえねえ、このお客さん、北海道に引っ越すんだって!」

「ええッ! ほっかいどー! あら……」

 何人かが集まってきて、気の毒そうな顔で同情された。東京の人にしてみれば、北海道は「地の果て」の「とんでもない土地」なのである。観光で遊びに行きたい憧れの地ではあるが、住む場所としては、あり得ない土地なのだ。

 北海道生まれの私ではあるが、長年北海道を離れていたので、すっかり見知らぬ土地になっていた。数日帰省するのとそこで暮らすのとでは、感覚がまるで違う。それゆえ、戻ってきた当初は、驚きと戸惑いの連続であった。それまでの常識が、北海道では通用しないという場面に数多く出くわした。そのズレの修復には、かなりの苦戦を強いられた。

 最初の二年を室蘭市で過ごしたのだが、室蘭はまったくの見知らぬ地であった。母と妹が札幌にいたので、頻繁に行き来していた。室蘭と札幌は、特急列車で一時間半の距離である。東京感覚では通勤圏内となる。

 その見知らぬ土地で、私が最も驚いたのは、「人のやさしさ」だった。接してくれる誰からも感じたことは、人とのキョリの近さである。こんなに近くていいのか、と戸惑うほどだった。みな、一様に温かい。心が純朴なのだ。人のぬくもりが心地よかった。そのやさしさに、どれほど救われたことか。なかにはそうでもない人もいたのだが、それは稀であった。

 私は仕事柄、ハローワークや労働基準監督署、税務署、法務局などの公的機関へ行く機会が多い。つまり、公務員と相対することになる。彼らは書類の不備に対しては、極めて冷淡である。よく考えると、それは至極当然なことなのだ。問題は、不備のある書類を持ってきた相手への対応の仕方にある。

 東京では電車を乗り継ぎ、長時間待たされてやっと順番が回ってきた相手をにべもなく追い返す。

「印鑑が抜けてますね」 印鑑の抜けた部分を指で押さえながら、あらぬ方向を見ている。

「今日中に書類を提出したいんですが、何か方法はないですか」

「ありませんね、押してもらわないことには」

 取り付く島がない。大勢の人々を手際よく処理するためには、それも仕方のないことなのだ。一人一人に手をかけてなどいられない。トラブルが起きたときに書類に不備があったら、自分たちの非が問われる。私は、これまで散々な目に遭ってきた経験から、覚悟をもって室蘭のハローワークに足を運んだ。

「ゴメンなさいね、分かりにくい書類で。いったん、お預かりしますので、後日、差替えという形にします。改めて書類を持ってきてもらえますか。郵送でもいいですよ」

 そこまで言われると、いったん会社に戻って、直した書類を持ってこようという気になる。距離も近いので十分それが可能なのだ。

 とにかく対応が丁寧で、親切なのだ。たまたま担当した女性がそうなのかと思ったが、誰もがやさしかった。税務署でも同じようなものを感じた。人間、こうじゃなくてはダメだ。自分もそうあらねばと強く思った。

 だが、同じ北海道でも、札幌を代表とする都会と郡部とでは、体感温度が違うようだ。

 室蘭に来てすぐのころ、駅前の小さなラーメン屋に入ったことがある。五十代後半と思しきオジさんが、カウンターの隅で一人ラーメンを食べていた。会計の段になったとき、

「お客さん、しばらくぶりでしたね」

 店主が声をかけた。

「札幌に転勤になってさ。懐かしくてね、ここのラーメン」

 これを皮切りに立ち話が始まった。ほかにお客はいなかった。会話の中でオジさんが、

「いやー、ダメだー、札幌は。人間が殺伐としてるんだわ。室蘭に帰ってくれば、ホッとするもんな」

 その会話を耳にし、吹き出すのを堪えた私の鼻の穴から麺が飛び出し、盛大に噎()せた。なにせ私は東京から来たばかりで、北国の人々の純朴さに感心していたところだった。私からすると、室蘭も札幌も同じだったのだ。このオジさんが東京に転勤になっていたら、どんな反応をするだろうか。私のふるさと様似(さまに)の人が室蘭に住むことになったら、同じような感想を漏らすだろうか。様似の人口は室蘭の二十分の一だ。そんなことを考えながら、しばらく一人でニヤニヤした。

 言葉には温度がある。心やさしい人が発する言葉にはぬくもりがある。どんなに厳しいことを言われても、芯が温かいのだ。だから、そのときは「なにクソ!」と思っても、あとでジワリとしみてくる。

 東京でも忘れがたい思い出がある。

 私は二十一年の結婚生活をしてきたのだが、離婚する直前までの十二年半、精神を病んだ妻との闘病生活を強いられていた。妻が発病したのは娘が小学二年の冬である。私は三十八歳だった。

 妻の病状は変遷していくのだが、初めのころは自殺未遂と、妄想からくる耐えがたい私への暴力が繰り返されていた。何度、もうダメだと観念したことか。だが、そのつど奮いたって立ち上がってきた。私が強かったからではなく、幼い娘を守ろうとする気持ちからだった。娘から母親を奪うまいという思いがあった。

 そのころの私は、ギックリ腰に始まり、胃潰瘍、帯状疱疹、メニエール(目眩)と、神経性の病気が次々に現れていた。追い詰められていたのだ。妻の病気のことは周りには知らせていたのだが、具体的にどのような状況であるのかまで、いちいち説明していなかった。そんな気力も失せていたし、説明したころで理解できないだろうと思っていた。私はギリギリの精神状態で日々を過ごしていた。そんな私の雰囲気を見かねたのだろう、ある日、上司が、

「お前、だいじょうぶか。本当は、大変なんだろう。少し外をふらついて来いよ」

 仕事中の私の机の傍らでそっと呟いた。その言葉がどれほど私を救ったことか。私の胸は一杯になり、

「ありがとうございます。だいじょうぶです」

 と言って上司から目をそらし、天井を仰いだ。こぼれそうになる涙をこらえていたのだ。

「人生の荒波」という言葉がある。私はこの上司の言葉で人生の荒波を乗り越えられた、と言っても過言ではない。

 東京も、捨てたものじゃないのだ。だが、よく考えてみるとこの上司、出身は函館だった。


                    平成三十年八月  小 山 次 男