Coffee Break Essay


 「私のズレ」


 私は「変わり者」である。だが、自分ではそれほど自覚はない。ただ、周りを見回すと、歴然とズレているので、「変わり者」を甘んじて受け入れている。

 それまで自分の中でかすかに感じていたズレが、年を追うごとに明確になり、今では大地震後の活断層のように、明確な段差となって露呈している。ズレとは、みんなが興味をもって楽しんでいることに、まるで関心がもてないということである。

 たとえば、マージャンにパチンコ、競馬、競輪、競艇などの賭け事のすべてがダメである。オセロゲームは小さいころによくやったが、花札や将棋や碁はダメだった。将棋が好きだった父は、やむなく私の従弟を相手にしていた。

 ゲームもダメである。だからゲームセンターには、トイレを利用する以外で入ったことがない。会社に新しいパソコンが入り、内蔵されているゲームが目障りだったので、真っ先に全部消去した。昔のパソコンは容量が少なかったので、それを広げる意味もあった。たまたまその様子を目にした同僚が、

「近藤さん……今、なにをしたんですか。自分のやったことの意味、わかってますよね」

 見てはいけない現場を目にしてしまった、といった顔で訊いてきた。

 小学生のころ、みんな楽しそうに漫画を読んでおり、私も頑張ろうと何度か試みたが、結局ダメだった。かなり前から税金とか年金の解説、または歴史などをわかりやすく説明しようと漫画仕立てにする傾向があるが、迷惑なだけの話である。

 若者の車離れがささやかれて久しいが、それ以前から私は自動車に興味がなかった。幼いころから車酔いがひどく、それゆえ自動車に拒絶反応を示していたのである。現在、自動車関連業界に在籍しているゆえ、あまり大きな声ではいえないのだが。

 若いころは野球が好きで、中学では野球部に入っていた。ボールが見えなくなるまで練習に明け暮れていた。それが今ではプロ野球すら見ない。テレビ自体、ニュース以外はほとんど見なくなった(NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」だけは見ている)。

 昨年の春、北海道に転勤してきて、多くの人が日本ハムを応援しているのに驚いた。私の妹も大のファイターズファンで、ファイターズが負けた日は気の毒で、言葉のかけようがない。何年か前までは、熱烈なジャイアンツファンだったのにと思うのだが、触れてはいけないことのような気がし、いまだその点については訊いていない。

 私が今、一番忌々(いまいま)しく思っているのがゴルフである。ゴルフはサラリーマンの必須科目のきらいがある。ここだけの話だが、ゴルフをするくらいなら死んだ方がましだと考えている。いささか過激ではあるが、強い牽制球を投げておこうという魂胆が働いている。ゴルフ愛好者に喧嘩をうるつもりはない。みんなが楽しそうにしていればしているほど、反作用のように拒絶反応が増幅するのだ。困った性質である。自分でも嫌になるのだが、どうしようもない。

 小さなボールを遠くへ飛ばし、地面にあけた穴に入れて何が面白いのか。大の大人が夢中になるほどのものか。小中学生のころは、父のパターを持ちだして、友だちとよくゴルフのマネごとをして遊んだものである。だが、私は左利きゆえ、パターしか使えなかった。

 聞くところによると、ゴルフをやっていて相手の打った玉がうまく飛んだときに、

「ナイス・ショット!」

 と周りの者がいわねばならないらしい。それが「紳士のマナー」だという。間違っても、「ヘタクソ!」といってはいけないのである。私はボーリングが好きで、かつてはよくやったのだが、たまらなく嫌なことがひとつあった。ストライクを出したときに、一緒にやっている者とハイタッチをすることが苦痛だった。相手が女性ならまだしも、むさ苦しい男ならゴメンである。私は高倉健のように黙々とやりたいのである。逆に、そういう者と一緒にやりたいとは誰も思わないだろうが。

 飛行機が関東平野に近づくと、たくさんのゴルフ場が見えてくる。目を疑うほどの数である。山を削り、林を削いで芝を植え、砂を入れて池を造り……、それはまるで本の紙魚(シミ)の跡のように、森林の中に広がっている。眼下に現れるそんな殺伐とした風景を眺めていると、惨憺たる気持ちが胸に満ちてくる。そのうちにきっとバチが当たる、と。

 ゴルフもそうだが、朝早く起きて何かするということが苦手な性質(たち)で、それゆえ山菜採りやキノコ採りにも行かない。中学を卒業し故郷を離れるまで、父やその仲間たちに連れられて、時季になるとよく山へ入ったものである。とても楽しかった。

 私のズレを挙げれば切りがない。それは私の社会性の欠如でもある。しかもかなりの重症だ。オマエはいったい何が楽しくて生きているのだ、といわれても仕方がない。

 私はひとりで行動するのが好きである。気楽なのだ。

 たとえば、室蘭での夏の休日。ゆったりと本を読んで、それが琴線に触れるものであれば極上のひとときとなる。ひがな図書館で過ごし、日没が近づきあわてて海へと急ぐ。電信浜に夕日を見に行くのだ。五分も歩けば海に出る。東京から室蘭に転勤してきて見つけた、お気に入りの場所である。

 サンダルを手に波打ち際をはだしで歩く。「波は寄せ、波は返し、波は古びた石垣をなめ……」、むかし国語の授業で教わった詩の一節がよぎる。電信浜は断崖に囲まれた小さな入り江である。目の前には穏やかな噴火湾が広がっている。

 海水浴客の喧騒が失せ、だれもいない広い砂浜が自分のものになる。オレンジ色からブルー、ダークブルー、やがてグレーへと刻々と色を変へてゆく渚を、ただ歩く。振り返ると波に消されながらも、自分の足跡が点々と続いている。そんな時間の過ごし方が好きなのである。

 また、あるときは噴火湾を見下ろす道をチャラツナイから自然散策路に入り、チキウ岬へ向かう。深い谷へ降り、そして登る起伏に富んだ道を自然と一体になって歩く。とても深い森である。時には、行者のように駆け抜ける。トッカリショの手前から母恋へ降り、仏坂を越えてマンションへ戻る。七、八キロほどの道のりである。

 山道を歩いている間は、終始ウグイスの澄んだ鳴き声を耳にする。我々和人が入り込む前は、どんな風景だったのだろう、想像が掻き立てられる。また、室蘭市の西部は、噴火湾に小指を差し入れたような形の半島である。この絵鞆(えとも)半島は、噴火湾から競り上がるようなダイナミックに傾いた地形で、かつての造山活動を思わせる。そんなことを感じながら歩くのが好きなのだ。

 私がこの地を離れ、室蘭の魅力を訊かれることがあったとしたら、絵鞆半島のダイナミックな地形と、そこに刻まれた先住民の地名を迷わずに挙げるだろう。

 東京にいたころは、都内をよく歩いたものである。渋谷、新宿、池袋、上野、浅草、銀座はもとより、有楽町、日比谷、神田神保町、御茶ノ水、乃木坂、赤坂、四谷、麹町、吉祥寺、下北沢……歩く場所は無数にあり、飽きることはなかった。街の雰囲気やそこに堆積された時間を感じながら歩く。ただ東京は、関東大震災と東京大空襲によって破壊し尽くされている。それでもその場所に立つと、かすかに立ち上ってくる歴史の香りがある。そのほのかな香を感じたとき、幸せな気分になる。

 また、人を眺めるのも好きである。銀座四丁目や、渋谷ハチ公前の交差点を見下ろす喫茶店で、道行く人を飽くことなく眺めていた。人々の持つ雰囲気から、その人の人生ドラマを勝手に想像する。そんなことが楽しくてたまらなかった。

 みんなと同じである必要はない。それがあなたの個性なのだから。若い人には胸を張ってそういうだろう。でも、私の年齢になれば、それは通用しない。

「どうかみなさん、私のことはご放念いただきたく、何卒、よろしくお願い申し上げます」

 選挙演説よろしく、そんなふうに言い放ってみたいものである。


                平成二十四年八月 立秋  小 山 次 男