Coffee Break Essay




 忘れがたい想い出


 学生時代の先輩から、地元産の二十世紀ナシが送られてきたことがあった。三年前のことである。

 鳥取出身のマモルさんは、私の一学年上の先輩である。先輩とはいえ、私が一浪しているためで、年齢は同じだった。学生時代を京都の同じアパートで過ごし、青春を謳歌した仲間であり、同士でもあった。大学を卒業後、マモルさんは地元の役場に、私は東京の会社に就職した。

 そのマモルさんから思いもかけず荷物が届いたのだ。大きな段ボールの中には、手紙が添えられていた。私のブログを読んで、かつて私と北海道旅行をしたことを思い出し、手紙を書いている、とあった。

 ……貴殿のこの一文を読んだ瞬間、なぜか三十数年前の学生時代の想い出が走馬灯のように甦って来ました。あなたをバイクの後ろに乗せ、北海道まで旅した、あの時のことです。もっとも、あなたにとっては帰省でしたが。

 敦賀発小樽行きのフェリーでは、日本海を北上する台風に追い越されて、船内は大揺れ。私たちは船旅を満喫することもかなわず、船酔いですっかりダウンしてしまいました。足かけ二日かけてたどり着いた北海道は、二十年ぶり(?)に上陸したという台風の影響で道路や交通機関はズタズタ。貴殿のふるさと様似(さまに)までたどり着くのもおぼつかない状況でした。苫小牧から日高方面へ向かう海岸沿いの国道は軒並み土砂崩れで通行止めとなっており、「ヒグマ注意」の看板を横目に日高山中の林道を縫いながら走ったことを、今でも懐かしく思い出します。

 そして、あなたのお父上に借りた車で、様似からえりも岬を経て帯広、足寄(あしょろ)、弟子屈(てしかが)、阿寒など、初めての北海道を満喫させていただきました。なかでも途中で立ち寄った喫茶店のテレビで、甲子園球場に流れる母校の校歌を耳にした時には、最果ての北海道で聞いたということも相まって、感極まるものがありました。

 こんな内容の手紙だった。一九八二年にマモルさんが卒業した後、私たちは一度だけ東京で会っている。マモルさんは役場の職員旅行で上京してきたのだ。その後も年賀状のやり取りはしていたが、今回の便りは二十五年ぶりのことであった。

 マモルさんの腰にしがみついて、京都から北海道へ旅した思い出は、今も私の記憶に鮮明に焼き付いている。バイクで夏の北海道を走ってみたい、そんなマモルさんの思いに便乗して帰省したのだ。午後八時すぎ、敦賀に近づいたところで土砂降りの雨に遭い、初めてバイクに乗る私はカーブでの身のこなしが思うに任せず、危うく転倒しそうになったのを覚えている。計画性のまったくない、無謀な旅であった。

 当時、舞鶴と敦賀から一日おきに小樽へ向かうフェリーが出ていた。いずれも午後十時の出航で、二泊三日、三十三時間の船旅だった。このときは台風とともに北上する格好となり、二人ともひどい船酔いに襲われ、出航直後からほとんど寝たきりの状態に陥った。全長二〇〇メートル近いフェリーが、ミシミシという音と共に木の葉のように揺れた。フェリーのレストランも閉鎖され、おにぎりだけがかろうじて販売されていた。そのおにぎりでさえ、喉を通らなかった。三十三時間、私たちはほとんど飲まず食わずで小樽にたどり着いた。

 やっとの思いで上陸したのもつかの間、順調に走ることができたのは小樽から札幌を経て苫小牧までであった。そこから様似までの一五〇キロほどの海岸沿いの国道は、土砂崩れと波による浸食のため通行止めとなっていた。そのため山道を大きく迂回しなければならなかた。

 このとき私は、バイクの後ろに乗って帰省することを親に話していなかった。反対されることは火を見るよりも明らかだったからだ。しかし、すべての交通が遮断されてしまったため、やむなく途中の公衆電話からその旨を告げた。案の定、その場から私だけ汽車で帰ってこいとの父の言葉を耳にした。しかし、線路も流されており、帰る手段はバイク以外にはなく、父は渋々認めざるを得なかった。

 フェリーが小樽に着いたのが午前五時過ぎで、そこから延々と走りとおし、私たちが様似にたどり着いたのは、午後七時を回っていた。小樽から十四時間もかけて走りとおしたことになる。スマホもナビもない時代である。その時は地図さえも持っていなかった。唯一の頼りは、当てにならない私の勘だけだった。

 途中、どこへ繋がっているのかさえ定かではない未舗装の道を延々と走った。当時は道路標識もきちんと整備されていなかった。そんななか、迷い込んだ小さな集落で、目にする人々の風貌に違和感を覚えた。そこは話に聞いていた二風谷村(にぶたにむら)であった。アイヌの人々が多く暮らす地域である。

 私たちが迷い込んでから十五年後、この村出身の菅野茂氏が参議院議員となり、初めてアイヌ語による演説を国会で行っている。この萱野氏の功績により旧土人保護法が廃止され、日本人は単一民族であると記されてきた歴史の教科書が書き換えられた。

 私たちは何度も立ち止まって道を訊きながら、やっとの思いで様似までたどり着いたのだった。翌日は、えりもから様似、浦河までを車で走り回り、さらに翌々日には道東方面へと遠出している。考えられない体力である。もちろん、宿の予約などない、行き当たりばったりの旅だった。途中、昼食を摂った見知らぬ街の食堂で、夏の甲子園野球を目にした。

 バックネットを背に一列に並んだ選手がテレビに映し出されていた。そこでマモルさんは母校の校歌を聴いたのだ。思いもかけぬ場所で校歌を耳にしたマモルさんの目には、うっすらと涙が滲んでいた。その後、私たちはどんな旅をしたのか、まったく記憶にない。

 三年前、マモルさんが目にした私のブログは、次のように締めくくられていた。

「夏の終わりに人生の黄昏を覚え、ふとした拍子に遠い昔の記憶が甦る。過ぎ去った想い出は、ほとんどが美しい。人間、嫌なことは忘れるようにできているのだろう。思いがけず立ち現れる光景に、懐かしさが胸に満ち、思わず涙することもある」

 鼻につくような観念的な文章で、どこかで聞いたことのありそうなフレーズである。そんな文章が、マモルさんの心に届いた。五十五歳のマモルさんの心に甦った記憶は、私たち二人だけが共有する、かけがえのない想い出である。


                   平成三十年十一月 小