Coffee Break Essay



この作品は、「雪山に果つ」と題し、室蘭民報(2014年10月25日)夕刊「四季風彩」欄に掲載されました。


  「わが友、雪山に果つ」 ― 山本(旧姓大藤)明子を偲ぶ ―


 何気なく見ていたテレビのニュースが、冬山遭難の映像を流していた。

 鳥取県の大山(だいせん)で岡山県の登山クラブの男女人が遭難、全員の死亡が確認された、というものだった

 人は、日に日帰りの予定で大山登山に訪れていたのだが、連絡が取れなくなった。捜索の結果、十一日に人を発見。山頂付近では、ほかの男女人が意識のない状態で見つかった。だが、天候の悪化により救助活動を中断。十二日に収容されたが死亡が確認された、というものである。よくある冬山遭難のニュースだと思いながら、何とはなしに眺めていた。

 翌、三十三日の夜遅く、京都にいる学生時代の女性の友達からメールが届いた。久しぶりのメールである。何だろうと思って開き、目を疑った。遭難で亡くなった女性が、学生時代の同じクラブ(ESS)の仲間だった。旧姓でなかったので、ピンと来なかったのだ。ウソだろ……私は言葉を失い、しばし呆然とした

 亡くなった友人の女性は、若くしてを亡くしていた。山登りが好きで、全国各地の山を訪ね歩いている、とのメールをかなり以前にもらったことがあった。

 大学を卒業して以来、三十年近くも顔を合わせていない者が大勢いる。学校が京都だったので、東京にいる私には、なおさらそんな感覚が強くある。そこで、同じく東京にいる当時の仲間である蜂屋に、ESSの同期会をやりたいな、と声をかけていた。三年前(平成二十三年)のことである。

 しばらくして、

「四月にやることにしたぞ、京都で」

 声をかけていた蜂屋からメールが入った。蜂屋は関西周辺に散らばっている仲間に声をかけ、早々にまとめ上げてくれたのだ。その直後、私は転勤の内示を受けた。北海道の室蘭市である。

「お前、そらぁ、ないやろ。言い出しっぺが欠席かよ」

 三月の異動で、しかも北海道である。見知らぬ土地での慣れない仕事、とても同期会に参加する気分にはなれなかった。そんなわけで、当時の仲間数名が京都に集まり飲み会を催した。

 徳島、福井、倉敷、大阪、京都など、みなそれぞれに散らばっている。その宴席から私に電話をくれた。電話口から懐かしい仲間の声聞こえ、それが次々に入れ替わった。その中に彼女もいた。

「今度、北海道の山一緒に登らへん、旭岳。山はええわよ

オレ、人生の山坂、イヤというほど登ったり転げ落ちたりしてるからな……

 と冗談めかして会話を楽しんだ。それが彼女との最後の会話になってしまった。まさか、こういう結末になるとは……痛恨の極みである。

 彼女の訃報は、瞬く間に仲間の間を駆け巡った。一番遠いのは、ニューヨークにいた。だれもが、言葉を失い、凍りついていた。

「ホントかよ……」

 彼女の遭難事故の状況は、はっきりとはわからない。後日、ネットで調べて分かったことを、パッチワークのように並べると、事故の全容がおぼろげながら浮かび上がってくる。生存者がいないので、あくまでも憶測の域を出ないが。

 一行三名は、三月九日の午前九時に入山し、午後三時には下山する予定になっていた。ところが、十日になっても連絡が取れないため、所属の登山クラブが鳥取県警に通報した。

 この日、午前中の山頂付近の天候は、曇りの中に時々晴れ間が見える、いわゆる「疑似晴天」と呼ばれる状態であった。天候が良い、と錯覚してしまう状況だった。午後三時ころには、吹雪により視界が五から十メートルほどになり、気温は氷点下八度まで下がっていた。

 捜索に当たった鳥取県警の初報では、頂上付近で一名死亡、二名が意識不明で発見、とのことだった。あたりにロープなどの装備類が散乱していた状況から、滑落と見られている。

 今回の遭難、稜線付近でビバーク〔緊急的な野営〕を試みた形跡があるという。一般的に、風の吹きさらしになる縦走路でのビバークは考えにくい。天候の悪化があまりに急激だったのか、または三人に抜き差しならぬ何かが起こっていたのか。体力の低下により、引き返せない状況にあったのだろうと想像される。滑落した後、ビバークしようと雪洞(せつどう)を掘っている途中で力尽きたのではないか、というのが登山仲間の分析である。

 以上はブログ(「ビビリ系登山 道具大全」)からの引用(筆者による表現の変更あり)である。そのブログに次のようなコメントがついていた。

「(略)同じ日、同じ時間帯に弥山(みせん)〔大山とは山全体の総称で、独立峰である。頂上は弥山(標高一七一〇・六メートル)、三角点峰で、最高峰は剣ケ峰(けんがみね)(一七二九メートル)である(筆者注)〕におりました。この日は日曜日でしたけれど登山者は少なかったです。亡くなられた方たちは剣ヶ峰への縦走路を歩かれたのだと思います。

 あの日は気温も低く、風も強く、雪も降り始め荒れた天候でした。トレース〔雪面を歩いた跡(筆者注)〕もなく、雪庇(せっぴ)もわかりにくかったと思います。稜線を歩く人はあまり見かけませんでしたが、剣ヶ峰に二名人影があり、ラクダの背を超えたあたりに三名。赤い服装? の方を挟むように歩いている方がありました。

 ほんの数分、ガスが晴れて剣ヶ峰まで見えた時に写した写真に、三人が写っていました。十二時十分前後です。

 ラクダのコブの上でしばらくとどまっていらっしゃいました。たぶん行こうか戻ろうか迷われたかもしれませんね。ベテランの方のようでしたが、十五時三十分の下山には無理があるように思います。

 お天気が良ければ問題ないのですが、荒れると風が強く六合目でリタイアすることもあります。山では引き返す決断力も必要ですね。(略)」

 事故はその後に起こったようだ。山頂には避難小屋もあったようだが、そこにたどり着くことすらできない状況だったのだろう。

 学生のころの闊達な彼女の笑顔が甦る。せめてもの慰(なぐさ)みは、その笑顔が永遠のものとなって私の心に残ったということである。彼女には三人の子供がいたが、みなすでに独立していると聞き、ほんの少しホッとした。

                 
                 平成二十六年八月  小 山 次 男