Coffee Break Essay




 『我が青春のESS』

 (九)

 秋のディベートでは、フルブライトの交換留学で同志社大学に来ていたS・ライマン教授にジャッジをお願いした。教授は週に一度、龍大で講義を持っており、龍大ESSの企画の吉山から紹介されたのである。教授は休日を返上して、快く引き受けてくれた。ライマン教授は、UCLAでディベートのコーチをしていたという輝かしい経歴があった。

 後日、このライマン教授を誘ったことが、龍大法学部の事務長の耳に入った。おそらく、教授が学生との交流を何気なく口にしたのが伝わったらしい。私と吉山とプレの山木の三人が事務長に呼び出され、大叱責を受けた。

「お前たちは、あの方をどなたと心得ている」

 事務長の唇が怒りでわなわなと震えていた。ライマン教授は、社会学の世界的権威で、お前ら一介の学生が気安く話せる相手ではない。大学がやっとの思いで頼み込んで来て頂いている先生だ。多忙な先生なのだから、二度とこのようなことはするな、という憤激内容であった。

 数日後、大学に顔を出したライマン教授に謝りに行くと、日本の学生とまたとない交流ができてとても有意義だった。もう二度と大学関係者にはいわないからと、逆に謝られた。その時教授の傍らに学部事務室の若い職員がいた。我々の一件があってから、教室への送り迎えに職員をつけていたのだ。このときも教授に近づく我々を職員が制するような態度に出たのだが、教授が「彼らは私の大切な友達なんだ。もう君は戻ってよろしい」とその職員を追い払ってしまった。

 また誘ってくれという教授の気さくさに気を許した我々は、ことあるごとに教授を連れ出した。茶道部でお茶のお手前を体験してもらったり、合気道部の見学や大学祭では居合のデモンストレーションに飛び入り参加し、日本刀で藁の束の試し斬りするなど、学生顔負けで無邪気に喜んでいた。

 教授はこれまでに、能や歌舞伎、社寺仏閣の見学、舞妓さんがいる料亭での接待と、日本の一流文化を見ていた。彼にはそういう接待がたまらなく窮屈だったようだ。我々学生と気軽に話しながら、日本の文化に触れることをとても楽しみにし、また心から喜んでいた。


 ディベートの試合当日は、大人数が集まった。二人制の場合、四十名のパンツ(パティシパンツ=選手、出場者)、ジャッジ、チェアマン(司会進行)、タイム・キーパーがそれぞれ十名、これにKFCの幹部が加わる。さらにオーディエンス(見学者)を合わせると、ファイナルでは五百名近い人数となった。

 試合当日はディベ専が司令塔となり、運営委員長が細かな作業を補う。ジャッジ・カンファレンス、パンツ・カンファレンス、チェアマン・カンファレンスと試合の最終確認を分刻みのスケジュールでこなし、オープニング・セレモニーを迎える。

 オープニング・アドレス(開会の挨拶)は、委員長が行うことになっていたが、クロージング・アドレス(閉会の挨拶)は、KFCの幹部が持ち回りで行うことになっていた。私がディベ専になったとき、クロージングだけは勘弁してくれ、と条件をつけていた。人前で話すのが苦手な上、ウィットに富んだ英語のスピーチをしなければならない。私には無理だった。

 ディベートのファイナルでは、ディベ専がチェアマンを務めなければならない。ファイナルを前に張り詰めた空気の中、静まり返った会場の視線が、一身に刺さってくる。京都のディベ専とはどんなヤツだ、という好奇の目である。

 ファイナルであるという旨を宣言した後、全員に起立を促し、五名のジャッジを拍手で迎え入れるという手順であった。話す内容があらかじめ決まっていたので、チェアマンは難なくこなすことができた。

 このディベート・コンテストにも様々な慣習があり、ファイナルの試合の司会はディベ専が行うが、試合後の結果発表は、デリゲ(運営委員)の二回生の女性が務めることになっていた。私は、秋の二人制ディベートのファイナルの司会を、ある女性に託そうと決めていた。

  (つづく)



                平成二十年八月 立秋  小 山 次 男