Coffee Break Essay




 『我が青春のESS』

 (八)

 私がディベ専(KFCのディベート専門委員長)になってまずとりかかったのは、春の二人制ディベートであった。招待校にインヴィテ(インヴィテーション=招待状)を送り、その間に十名のジャッジの選定をする。

 当時、KFCから京大と同志社が抜けており、連盟全体としては八大学になっていた。連盟校以外の招待校十二校の選出は、返信の届く先着順になっていた。常連は、東大、早大、上智、阪大、関大、関西学院、神大などで、KFCを抜けた京大、同志社もそれに加わっており、遠くは北大の参加もあった。

 私を悩ませたのは、ジャッジ依頼の電話であった。アメリカ人と面と向かって会話するのも心もとないなか、電話でのやり取りをしなければならない。それを考えただけで憂鬱になった。R・マクドーナル、S・ビビアン、D・ホプキンス、D・ワルッシュというのがジャッジの常連メンバーである。今でも彼らの顔を鮮明に覚えている。いずれも関西の大学で教鞭をとっており、安いジャッジ・フィー(報酬)で、毎年引き受けてくれていた。

 アパートの公衆電話の前に十円玉を積み重ね、意を決して電話をする。

「ハロー、ディス・イズ・ケンコンドウ・スピーキング。アイム・ア・チーフ・オブ……」

「ハアッ? どなたはんどすぅ? よう聞こえまへんのや」

 初めての電話が間違い電話となってしまった。気を取り直しかけなおす。すると今度は、

「おかぁーちゃん、電話やで」

 小学生くらいの女の子の声である。またかー、と思ったら、

「イエース、ディス・イズ・ミィ……」

 日本語ができるんなら、日本語にしてくれよと思ったが、誰一人として日本語を使ってくれなかった。

 ディベートのファイナル(決勝)のジャッジは、アメリカ人三名、日本人二名の五名で行う感心したのは、彼らの議論の激しさであった。試合後、別室で意見交換を行い、その後、各自のバロット(バロット・シート=採点表)に記入してもらう。その議論の白熱ぶりは、まるで映画のワンシーンを見ているようだった。

 ジャッジ・ルームには私とジャッジしか入室できないのだが、私はその光景を、教壇の上の椅子に座って息を潜めて眺めていた。二名の日本人も積極的に発言していたが、アメリカ人の迫力にはかなわなかった。

 日本人は、相手の話を聞いて反論する際「あなたの言い分は、ごもっとも。よくわかる。だが……」と、まず話し手の意見を尊重し、相手を慮(おもんぱか)った上で、相違点を述べる。だが、やや極端な表現かも知れないが、アメリカ人は「あなたの意見は違う(私の意見は違う)。なぜなら……」とノーを先に言うのである。いきなりど真ん中の直球勝負なのである。

 これが国際社会の常識、多民族国家ではこういう形で自分の意見を主張しなければ、相手には理解してもらえない。日本的な婉曲な言い回しは、単一民族の中でしか通用しない、というのが国際社会の常識だという。私もその国際感覚とやらを身に着けようと努力したが、だがな……というのが今も変わらぬ本心である。ESSに身をおいて、数多くの欧米人と接する機会があったが、最後まで、この国際感覚には馴染めなかった。  (つづく)


                平成二十年八月 立秋  小 山 次 男