Coffee Break Essay




 『我が青春のESS』

 (七)

 三回生のとき、私はディベートのチーフ(通称、ディベチ)になった。重い荷をずっしりと背負うような思いがあった。同期に冨島という女性がいた。英語力はもとより、資料収集力でも群を抜いていた。だが、ディベチは女では無理というのが当時の大勢で、私にその役が回ってきたのである。

 チーフとして初めてのKFC(京都全大学ESS連盟)のディベート専門委員会(各大学のディベートのチーフによる集会)に参加した際、すでに四回生となっていたKFCの幹部が数名出席して、ディベ専(ディベート専門委員長)をこの場で決めるということになった。私が全会一致で推挙されたのである。KFCの役員が全員決まっていた中、ディベ専だけが空席だった。ディベ専は大変だということを誰もが知っており、みんな辞退していたのだ。ハメられたなと思った。

「だいじょうぶや、全員でバックアップするさかい」

 私の一存では受けられず、その場は固辞したが、後日、KFCに押し切られる形で、龍大のコミッティーは私のディベ専を承認した。

 龍大からディベート専門員長を出すのは初めてのことだった。私が二回生からデリゲ(KFCへの派遣委員でデリゲートの略)として運営委員をやっており、顔が知れていたというのが決め手だったようである。

 KFCには、各大学のコミッティーと同じように委員長(プレジデント)、外務副委員長、内務副委員長、書記、会計に加え、ディベート、ディスカッションの各専門員長、運営委員長がいた。

 ディベ専の話がある一カ月ほど前、

「おまえ、委員長をやってみる気ィあらへんか」

 と委員長と内務委員長からいわれ、とんでもないと即答で断っていた。そのときは彼らも納得していたのだ。

 ディベ専に推薦された私は、数日後、五十名近い各大学の幹部の前でのスピーチと質疑応答を受け、すんなりと承認されたのである。龍大でのディベチ(ディベート・チーフ)の審査会後だったので、この選挙はさほど苦にはならなかった。

 ディベート専門委員長は、各大学のディベートのチーフで構成される専門委員会を統括していた。下部組織には、各大学から派遣されたデリゲによる運営委員会があり、運営委員長が束ねていた。運営委員会は、専門委員会での決定事項を実行する実働部隊であった。

 さらにこの年は、持ち回りで大阪のディベ専がウエスト・ジャパンの委員長、京都が副委員長の年にあたっていた。そんな仕組みすら知らなかった。不幸中の幸いは、私が委員長ではなかったことである。

 龍大のディベチとしての役割を果たせなくなった私は、冨島をディベートのサブチーフにし、彼女に実質的なチーフの役割を担ってもらった。彼女の活躍は目覚しく、この年、関関同立主催の一回生を対象とした五人制ディベートが初めて行われ、龍大が優勝をした。

 試合当日、私は名古屋大学へ行っており、夜遅くにその知らせを受け、みんなが飲んでいる四条河原町へ飛んで行ったのである。優勝カップに並々とつがれた酒を駆けつけで飲まされ、終電を忘れて飲んで騒いだ。

 ディベ専の引継ぎを立命館の前任者から受け、数日後には京都外大の委員長と立命館の外務副委員長、私の三人で東京へ出張した。ディベート大会のスポンサーへの挨拶のためである。東京へ行く目的を具体的に知らされたのは、新幹線の中であった。その時、私はほとんどなにも把握していなかったのである。

 このときのスポンサーは、当時青山にあったニューズ・ウィーク極東支社、それとブリタニカ・ジャパン、正式名称を忘れたが、通訳養成学校の三箇所であった。KFCとはいえ、大会になると京都だけではなく、全国からの招待校も含め二十大学が集まる。ファイナル(決勝戦)の観戦者は大講堂がいっぱいになっていたので、関係者も含めると五百人は下らなかった。企業の宣伝効果もそれなりにあったと思う。大会は、春と秋の二人制と、五人制、それに一回生だけの五人制(DFIK)と全部で四回あった。

  (つづく)



                平成二十年八月 立秋  小 山 次 男