Coffee Break Essay




 『我が青春のESS』

 (六)

 ディベートの資料集めは三カ月以上前から、それぞれ分担を決め、図書館にこもって十年分の新聞の縮刷版に目を通すことから始める。

 私が一回生のころ、図書館員の態度が冷淡でひどく横柄であった。毎日図書館に詰め、真剣に取り組む我々の姿に、図書館員の態度が次第に好意的になってきた。最後には資料探しに協力的になり、関連分野の専門誌や書籍を丁寧に紹介してくれるまでになっていた。

 試合が近づくと、午後八時の大学閉門後、数箇所のアパートに分散して集まり、入手した資料を英訳したり、ロジック(理論)の構築を話し合う。これらをプリパレ(プリバレーション)といった。それが二週間、三週間と続く。青白い朝靄の中、

「朝の五時までやってる部活って、どこにもあれへんで。異常やな」

 と話しながら歩いて帰ったものである。女の子もいたが、みんなアパート暮らしをしていたので、親の目は問題なかった。京阪電鉄の深草駅前にあった喫茶みどりは二階に座敷があり、飲み物一杯で時間貸しを行っていた。特に土曜、日曜は終日利用していた。いまだにこの店の店主夫婦と親交のある仲間が何名かいる。試合が近づくと、授業にはほとんど出られなかった。


 試合前には、各大学間で活発に練習試合が行われた。一回生の登竜門であった五人制ディベート(DFIK)の練習試合を京都外大と行ったとき、こちらはたどたどしい英語でやっと自己紹介する程度だったのだが、彼らはフランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語など、それぞれが履修している第二外国語でペラペラとやってのけた。履修してまだ一年もたっていないのである。さすがは外大と恐れ入った。私は二回生で終わるべきフランス語を三回生まで引きずった。今覚えているのは、「アン、ドゥ、トヮ」と「ジュテーム」だけという体たらくである。

 ディベートの試合では、自分の先輩を応援することもあったが、他大学の試合を積極的に見に行かされた。お前は東大、お前は阪大など手分けして試合を見に行き、試合内容を録音しながら、筆記して持ち寄り、相手の手法を研究していた。


 試合が終わった後の開放感は、凄まじいものだった。全員で四条河原町に繰り出し、ドンチャン騒ぎをする。飲み屋は、当時祇園にあった祇園平八や四条河原町、木屋町あたりにあったグッティグッティ、ブルーエーゲ、シーホースといった店である。もちろん、木屋町の餃子の王将本店は常連であった。当時、王将の二階には宴会の出来る座敷があった。

 王将は、安くて、早くて、汚いという、京都の学生にとってはなくてはならない店であった。外食産業のない北海道の田舎で育った私は、それまで餃子を食べたことがなかった。初めて食べたのが、この京都の王将である。以来、王将の餃子が気に入り、三十年間、食べ続けている。東京で転居した先々に、王将があった。就職の際、王将に勤めようかと、真剣に考えたこともあった。ちなみに王将では、いまだに餃子定食以外のものは食べたことがない。

 ハチャメチャに飲んだ後は、鴨川へ繰り出す。京都の学生は例外なく飲んだ後に鴨川べりに出て行き、川に飛び込んだり、河原で何かしらのパフォーマンスを行っていた。江戸時代までは、さらし首をしていた場所である。

 我々の場合、円陣を作って肩を組んで声を張り上げESSソングを歌い、その後、何度も何度もコーリングを繰り返す。

「レッツ・ハブ・ア・コーリング、アー・ユー・レディイ!」

「イエース!」

「ギブ・ミ・ア・ジー……」

 通りがかりの人々が、四条大橋の上から我々の奇行を、面白そうに見物していた。鴨川は、炸裂する若者のエネルギーの発露の場であった。

 京都の夏はとりわけ暑かった。人々が涼を求めて鴨川べりに集まってくる。先斗町の料亭がいっせいに「床」を出すと京都の夏は始まる。三水に京で「涼」となる。鴨川は、京都に暮らす者にとってなくてはならない存在であった。


 大学の恒例行事に提灯行列があった。七条あたりから三条大橋まで、千人を超す学生が提灯を手に京都の街を練り歩く。そこでも鴨川を挟んでのセレモニーがあった。提灯を持った大勢の学生が先斗町側におり、龍吟会という詩吟サークルが学生服姿で対岸の祇園側に造ったステージの上にいて、スポットライトを浴びながら、

「おー仰ぎ見れば東山に名月は皓々(こうこう)と照り映えて……」

 という口上に続けて、

「花咲き染めて一睡の/夢は夕べの鴨川か……」

 龍谷大学逍遥の歌の大合唱が始まる。その後、朗々と詩吟を唱じるのである。この行事は、京都の風物詩となっていた。観光客が橋の上からさかんにシャッターを切っていた。飛び入りで提灯行列に加わっている外国人観光客も大勢いた。大学祭を始めとした学校行事は、各部総出で行われていた。


  (つづく)


                平成二十年八月 立秋  小 山 次 男