Coffee Break Essay




 『我が青春のESS』

 (五)

 ESSでの本来の活動は、それぞれ所属セクションでの大学対抗の大会に出ることであった。体育会系でいうインカレ(大学対抗試合)である。大会は、連盟が主催していた。

 当時、関西には四つの連盟があった。京都には、KFC(京都全大学ESS連盟)があり、京大、同志社、立命館、京都外大、京都教育大、京都産業大、京都女子大、同志社女子大、ノートルダム女子大、そして龍谷大学の十大学が加盟していた。同様の連盟が大阪、神戸、名古屋にあった。

 この四連盟の上部組織がウエスト・ジャパンで、四国・九州を包括していた。関東にはイースト・ジャパンが東京にあり、同様な組織構造であった。頂上決戦は「イースト・ウエスト」と呼ばれ、この大会に出るのがディベーターの夢であった。

 関西にはこの四連盟の枠を超え五十大学ほどで組織されたKIDL(関西大学対抗ディベート・リーグ)が神戸にあった。一般には馴染みが薄いディベートだが、関西では盛んに競技大会が開かれていた。

 ディスカッションにも対外試合があったが、KFC内に限られていたように思う。どういう経緯か忘れたが、ディベートの私がKFCのディスカッションの大会に参加したことがある。

 ディスカッションとは言葉の通り、あるテーマを五、六名で議論し、ひとつの結論に導くのである。議長が審査員を兼ね、積極的に議論に加わり、優位な発言をした者が、次の試合に進むという方式だった。ディスカッションで議論が二つに分かれ紛糾したときに、賛成派と反対派に分かれて行われるのが、ディベートである。このディスカッションとディベートの手法を学んだことは、有意義であった。

 

 華やかさでは、ドラマ・セクションにはかなわなかった。彼らには年に一度、連盟のオーディションがあり、合格するとドラマ公演に参加できた。

 私が初めて見たドラマは、ピノキオだった。学芸会に毛の生えたようなものだろうと冷やかし半分に見に行ったら、これが学生の演技かと思うほど洗練されたものであり、強い衝撃を受けた。

 当時、ドラマの指導をしていたのが、ジャンセンというアメリカ人女性で、どこかの大学の先生であったと思う。ドラマが終わると、観客を見送るために出演者が出口で一列に並んで待っているのだが、男も女も抱き合うようにしてみな号泣していた。

 二回生のときは、ウエストサイド・ストーリーが上演された。男女十組ほどのカップルが舞台の上で躍動する。主役のカップルは勿論だが、全員でのキスシーンがあった。私や一緒に見に行った連中は、その予期せぬ光景に度肝を抜かれ、ただただ呆然と眺めていた。

 さすがの彼らも練習での初めてのキスシーンではためらい、みんなキスをするふりをした。それを見たジャンセンが、ちゃんとキスをしろと烈火のごとく怒ったという。何度も行われたであろうリハーサル風景が頭をよぎり、ドラマに入ればよかったと、大いに後悔した。その後、ペアーを組んだカップルたちがどうなったか、ディベート活動に追われ、訊かずじまいになってしまった。

 ガイドは、日本ガイド学生連盟(JSGF)に所属し、ガイド・コンテストがあった。また、バスツアーと称し、チャーターしたバスに留学生を乗せて京都や奈良の社寺仏閣巡りを行っていた。ガイドセクションのメンバーにとっての最終目標は、通訳ガイドの国家資格を取ることだと思っていたが、どんな活動をしていたのかよくわからなかった。やたら女子大と仲良くしていたのが印象深かった。

 

 ディベートとは、簡単にいうとアメリカ大統領選で候補者同士がテレビ討論を行う、あれである。全国の大学が共通のテーマに基づき、春と秋に競技大会を行う。テーマは、その年により防衛問題であったり、農業問題、原子力発電、年金、選挙制度、環境問題、消費税の導入の是非など様々である。論文が一本書けるほど掘り下げた勉強をした。

 たとえば防衛問題では、肯定側(アファマティブ・サイド)から日本はソ連(当時の呼称)の脅威に対し、防衛力をもっと増強すべきであるという主張を行う。ソ連が脅威であることの事例を図や表を使い数字で具体的に示し、陸上自衛隊にまわしている装備費を防空に向けることを提案する。レーダーを装備した早期警戒機の配備が何機必要で、潜水艦からの攻撃に備えるための対潜哨戒機が何機と具体的な数字にし、自分たちの主張を肉付けしたスピーチを行う。

 その賛成側のスピーチに対する反対論を、反対側(ネガティブ・サイド)が行うといった具合に進められ、一試合が一時間ほどになる。反対側にとっては、賛成側がどんなテーマを出してくるのか、脅威を北朝鮮にもってくるのか、中国なのか、視点を変えて食の防衛なのか、蓋を開けるまで分からないのである。それゆえ、想定されるあらゆる防衛に関する資料をもっていなければならない。それらの資料を数百枚のカード(エビデンス・カード)に分類し、手元に置いておく。賛成側のスピーチを聞き、メモをとりながら、反論資料のカードを整えてゆくのである。

 賛成側だった大学は、次の試合では反対側に立ち、別の大学と対戦する。ディベートには二対二で行う二人制ディベートと五人制があったが、主流は二人制であった。

 このディベートに所属したお陰で、私は大学生活を通し、教室にいた時間よりもはるかに長い時間を図書館で過ごすことになった。もっとも、あまり授業に出ていなかったということもあるのだが。

 ディベートに入ってすぐに、三回生から新聞を取ることを命ぜられ、お前は読売、お前は朝日と割り当てられ、私は日経になった。現在、私が日経新聞を取っているのは、このESS以来の習慣にほかならない。当時は、これらの新聞のほかに、毎日デイリーニュースや朝日イブニングニュースといった英字新聞も、連盟のスポンサーからの割り当てで、三カ月単位で取らされていた。

   (つづく)



                平成二十年八月 立秋  小 山 次 男