Coffee Break Essay




 『我が青春のESS』

 (三)

 ESSといっても英文科ばかりではなく、様々な学部の学生がいた。院生まで指導がてら顔を出していたので、年齢幅も広かった。

 ESSに入部してまずレシテーション・コンテスト(英語暗誦大会、通称レシコン)が行われ、新入生が篩(ふる)いにかけられる。

 レシコンの原稿は、キング牧師の「アイ・ハブ・ア・ドリーム」である。B五版の用紙三枚分の英文で、七分ほどのスピーチになる。その単語の全てに発音記号を振らされ、徹底的な発音矯正を受けた。どんな状況下でも淀みなく話せるよう、学生が行き交うキャンパスの傍らに立たされ、辺りが暗くなるまで続けられる。

 このレシコンは、一回生に対して二回生がマンツーマンで教える形を取った。それに不特定多数の三回生と時間のある四回生、院生までがついた。私を担当した二回生は、モッサンと呼ばれていた四国出身の女性であった。モッサンは後にガイドのチーフとなり、二回生のころから、スピーチに定評のある人だった。それゆえ、指導は厳しかった。

「……そやさかい、自分のそのRサウンドがおかしいねん。アーや、アー。やってみぃ」

 R(アール)の巻き舌がなかなか思うようにできない。アとエの中間音にも難儀した。

「アップル、いうてみぃ」

「アップー」

「ちゃうがな。エップォーや、ホラ」

「エプー」

「ちゃう、ちゃう。エップォー」

 アゴというか舌の付け根が筋肉痛になった。F、V、THと、モッサンは私から日本人を剥奪するかのように頑張った。教室の端に立たされ、遠くでモッサンが腕を組んで立っている。モッサンの組んだ腕の上には大きな胸が乗っていた。胸の大きな女性は優しいという私の固定観念は、モッサンによってはかなくも崩された。

 レシコンでは発音矯正ばかりではなく、目線を合わせるアイコンタクト、外人特有のオーバーアクションともいえるデリバリー(手振り身振り)も徹底的にヤラされた。含羞のある日本人には、これが難しいのである。演劇部員のような振り付けを要求してくる。そんな日々が一カ月続いた。退部していった一回生が何人か出た。

 レシコンの本番は、大教室で行われた。

「自分、自信もっていきぃ。大丈夫や」

 私はひどい上がり性だった。スピーチは滞りなくできたのだが、全体的に芳しくなかった。ガックリと肩を落として教壇から降りてきた私に、人目も憚(はばか)らずモッサンが抱きついてきた。

「ようやったわ、えらい、えらい。ようやった……」

 見るとモッサンが涙ぐんでいる。私も思わず感極まりそうになったが、私の胸に当るモッサンの弾力が気になり、それどころではなくなっていた。二十五年を経た今でも、この「アイ・ハブ・ア・ドリーム」を口ずさむことができる。そのたびに、モッサンの弾力が蘇ってくるのである。


 新入生にとって、レシコンの次なる試練はガイハンであった。ガイハンとは、ガールハント(すでに死語と化している)ならぬ外人ハントのことである。街行く欧米人を無作為につかまえ、英語で話しかけるのだ。外人に対する日本人特有の羞恥心や偏見を排除するために行われる。「なぜ日本人は家に上がるとき靴を脱ぐか」という短い説明文を丸暗記し、それを見知らぬガイジンに説明してくるものだった。二人一組で出かけるのである。

 京都には海外からの観光客が大勢来ているので、ガイジンに困ることはなかった。ホテルでくつろぐ彼らを襲うのが最も効率がよい。いきなり変な日本人が近づいて来て、唐突に靴を脱ぐ説明が始まるのだから、相手も面食らう。

 まず、先輩が模範を見せてくれる。次に一回生の番になり、少し離れたところから先輩の「行け!」のサインが来るのだが、それがなかなか踏み出せるものではない。

「ええか、エックスキューズ・ミー、アー・ユー・ア・ネイティブ・スピーカー?(母国語=英語を話しますか)やで。そうすとな、必ず〈イエース〉とか〈シュワー(もちろんさ)〉いぅてくるねん。そしたら自己紹介して、後は説明したらええねん」

 清水の舞台から飛び降りる覚悟で、

「エックスキューズ・ミー、……」とやったらビー玉のような青い目に見詰められ、「ホワイ?」と返された。「ホワイ?」は想定外だった。そんなことを何十回も繰り返し、ガイジンに慣れて行くのである。

 このガイハンは、オラコン(オラトリカル・コンテスト=英語弁論大会)の季節になると頻繁に行われる。原稿のジャパニーズ・イングリッシュ(日本語的な表現になっている部分)を手直ししてもらうのだ。見てもらった原稿はタイプライターで打ち直し、また別のガイジンに見てもらう。そんなことを四回、五回と繰り返す。各大学、ほぼ同時期にオラコンがあるので、あちらこちらで原稿を持った学生を目にした。

「今日はこれで五人目なんだ、もう勘弁してくれ」

 と逃げ出す外国人もいた。

「これまでいろいろな国を旅行してきたが、日本ほど勉強熱心な学生はいない」

 何人もの欧米人から同じようなことをいわれた。我々は日本の学生のイメージアップにひと役かったのだが、あまりに度が過ぎて、毎年ホテル側から禁止令が発せられた。

 京都を訪れる外国人は、観光目的ばかりではなく、マスコミ関係者や学会や国際会議に参加するためにやってきている学者など知識人も多くいた。女の子などは、君が大学生なのか、本当に二十歳なのか、と目を丸くして訊かれたものである。

「うちら、中・高生程度にしか見えへんのや」

 先輩は意にも介せず、なかには老夫婦に気に入られてホテルの部屋に招かれたり、京都の案内を頼まれて社寺仏閣めぐりを一緒に楽しんでいる人もいた。

 (つづく)



                平成二十年八月 立秋  小 山 次 男