Coffee Break Essay




 『我が青春のESS』

 (二)

 伝統を頑(かたく)なに守り、五十年という長期間にわたって部を存続させて来た所産が、雁字搦めの規則であった。

 部の総会では、胸にバッジをつけ部則携帯で、男子はネクタイを着用し、ジーパンはダメ。コミッティーと称する幹部は、スーツでなければならない。幹事長ともなると、年がら年中背広姿で学校へ来ていた。バッジや部則を忘れた者は、企画(プランニング・チェアーマン)から叱責がある。

「バッジ、部則忘れた者、前へ出ろ」

 教室の横に一列に並ばされ、全部員の前で謝罪しなければならない。この怖い企画は卒業後、とある県警本部に勤務している。

 総会の進行は企画が行う。企画とは、企業でいう企画部長のようなもので、ESSの行事の全てを取り仕切っていた。

「ただ今より第○○回ESS総会を開催します」

 といって、総会にかかわる部則の条項が読まれ、議長の選出が行われる。そこで、議長を推薦するため挙手をするのはコミッティーで、あらかじめ四回生に議長をお願いしてある。四回生は卒論、就職活動があるので、実質的にクラブ活動を引退しており、部活にはほとんど顔を出していなかった。

 議長に指名された四回生は企画と交代し総会の進行を行う。うまくできた仕組みで、四回生司会の下、三回生のコミッティーが様々な提案を行い採決がなされるわけだが、活発な質疑応答はあっても、議案が否決されるようなことはなかった。四回生の司会の効力は大きかった。


 当時のESSは、ディベート(英語討論)、ディスカッション、ドラマ、ガイドという四セクション制を敷いていた。普段はこのセクションごとに活動し、クラブとしての全体行動は、総会や春夏の合宿、フェアウェルなど、限られたものであった。この四セクションの上に立つのが、八名のコミッティーである。コミッティーは三回生によって構成される。

 幹事長(プレジデント。通称プレ)、副幹事長(ヴァイス・プレジデント。通称ヴァイス)、企画、会計、書記の五役と、各大学のESSの上部組織である連盟に派遣される三名のデリゲート(派遣委員)がいた。これに四セクションの各チーフが加わり、計十二名がESS活動を主導していた。

 このコミッティーの選定が難儀だった。三回生の幹部が次期幹部候補生を二回生の中から選び、部内の審査会を経た後、総会にて承認されるという手順である。審査会の構成メンバーは、三回生の幹部と四回生、それにOBが加わる。OBといっても実質は大学院生が顔を出していた。

 立候補届けを出して、英語での五、六分の所信表明のスピーチを行った後、英語と日本語による質疑応答が行われる。合格するまで審査会は何度も繰り返される。幹事長候補者が審査会を通過しなければ、ほかの幹部候補者の審査会は行われないのである。候補者のいるセクションの三回生の先輩たちは部活終了後、候補者のアパートで連日夜遅くまで幹部としての心構えなど、質疑応答の特訓を行っていた。候補者の落選は、三回生の責任であった。

 私もこの審査会を経験するのだが、立候補届けの受理に便箋をまるまる一冊使い切ってしまった。便箋に立候補の旨を数行書くだけなのだが、一行の文字数が決まっていたり、漢字の撥ねる部分が撥ねていなかったり、真っ直ぐ下ろす棒線が曲がっていたりすると、ハネられるのである。私は恐ろしいほどの悪筆であった。

 私はこの審査会を一回生で経験していた。この代の二回生が極端に少なく、一回生から三名コミッティーを出すことになり、そこに選ばれていた。たかが立候補届で、なんでこんなバカげたことをしなければならないのか、半ば不貞腐れて三回生の先輩に食ってかかった。

「あと一回だけ書きます。それでダメなら、別の適任者を選んで下さい」

 ボックス(クラブのある部屋の呼称)を飛び出し、近所の喫茶店に駆け込んだ。私は四時間も立候補届けを書き続けていたのである。気分を変えるために喫茶店へ入った。実はその日、京女(京都女子大学)のディベートのメンバーから、ドラマセクションの英語劇の観劇に誘われていたのである。

「そんなヤケになったらアカンがな」

 私の後を追いかけてきた別の先輩になだめすかされた。

「ええか、コミッティーになるとな、大学側にいろんな書類を出さなあかん。それは書記の仕事やけど、コミッティーである以上、誰もがでけなアカンのや。日本語いうもんは、きちんと書かなならん。それで人を見られる。それが日本の社会いうもんや」

 この先輩が誰だったか記憶にはないが、今考えるとずいぶん大人びたことをいう人だなと思う。結局この日は、ドラマの観劇には行けずじまいになってしまった。

 数年後、会社の新入社員研修で、夜遅くまでラジオ体操をやらされた経験がある。つま先をきちんと上げ、腕をまっすぐに伸ばす、正確にラジオ体操ができなければ、夜中まで合格しないのだ。ラジオ体操をしながら、私は学生時代の審査会を思い出していた。

 審査会が終わるころには、新幹部の顔つきはキリリと引き締まってくる。幹部としての指導力、厳しさを叩き込まれ、体中に緊張感が漲っていた。龍大ほど厳しいところはないだろうと思っていたが、産大(京都産業大学)がその上前を行っていた。

 一回生から懇意にしていた産大の同期が三回生で幹事長になった途端、すっかり別人と化してしまった。もともと真面目な男だったが、口調までがよそよそしくなり、とうとう一年間は親しく言葉を交わすことができなかった。


 二回生でコミッティーとなった私は、年間プランの詰めをやるからと、ヴァイスのマンションへ行くことになった。何をどうすればいいのか全く分からず、お客さんのような存在であった。

 ヴァイスの塩川さんのマンションは、我々八名が入っても十分な広さがあった。彼は資産家の息子で、スポーツカーまで持っていた。いつになったらこの打ち合わせが終わるんだろうと思っているうちに、とうとう夜が明けてしまった。

 何を話し合ったかは覚えていないが、マンションのすぐ隣が京都御所で、小鳥のさえずる朝もやの御所をみんなで歩いて帰った記憶だけが鮮明にある。

 コミッティーの失敗は、組織の根幹を揺るがすという強迫観念がコミッティーにあり、総会を滞りなく終わらせることが、コミッティーの至上命題になっていた。総会までに、幹事長が原案を作成し、副幹事長との二役会議、その後三役、五役を経て、八名の幹部全員によるコミッティー会議が行われ、原案に対する全員の同意が得られたところでコミッティー・ミーティングに移行する。このコミッティー・ミーティングから正式な議事録が残されていた。

 その後、総会に向けた質疑応答の練習が行われる。考えられるあらゆる質問を幹事長にぶつけ、その答えの質や答え方がいいか悪いか、延々と確認するのである。

「おい、角島、ほかにどんな質問がある」

 幹事長が書記の角島さんに向けると、ひとつの議案に対する過去の質問と答えを書記が読み上げるのである。書記が過去十年の議事録を読み返し、想定問答集を作っているのだ。過剰とも思える準備態勢で、総会を迎えるのである。

 総会後も夜遅くまで、質疑応答の内容を精査する反省会なるものを行っていた。どえらいクラブに入ったものだと、私は密かに思っていた。このコミッティーでの経験は、社会人になってから、大いに役立つことになった。

 (つづく)



                平成二十年八月 立秋  小 山 次 男