Coffee Break Essay

 『我が青春のESS』

 (十六)

 卒業が危うい状況であったが、父の危篤の知らせを受けるまでは、アメリカ留学を夢見ていた。自分の英語を完成したいという思いと、異文化を冒険してみたいという願望があった。

 三回生のとき、私はESS活動を通じて四、五歳上の英会話学校に勤める男と知り合っていた。彼は、大学を卒業してから、就職もせずに世界各国を放浪していた。片道だけの旅費で出かけ、先々の国でアルバイトをして過ごし、たまに日本に帰ってきてはまとまったお金を稼ぐために、数カ月働くという生活をしていた。

 そんな彼から、一緒にヨーロッパへ行かないかと誘われたことがあった。新潟から週に一便ナホトカ行きのフェリーが出ており、シベリア鉄道を利用してヨーロッパに入るという話であった。そのためには大学を休学しなければならず、ましてやESS活動があったので断ったが、魅力的な話として私の中に留まっていた。

 龍大ESSの同期からも誘われたことがある。卒業したら回教徒としてアメリカへ行かないかというものだった。回教徒とは、仏教の布教者である。とてもじゃないが私には無理であった。後に彼は、その夢を実現させた。二級下のESSの後輩と結婚し、いまだにアメリカで暮らしている。現在、彼はニューヨーク本願寺の住職をしており、数年前まではニューヨーク仏教連盟会長を務めていた。アルカイダによる自爆テロ事件以来、彼は毎年、ニューヨークで盆踊りを主催している。

 私は父の瀕死の報により、自分の夢を飲み下さざるを得なかった。今では、それも人生の岐路として許容している。

 英語とは無縁の会社に就職して数年、身につけた英語を忘れないための努力をしていた。おもに通勤電車を利用してのものだったが、今では元の木阿弥、何事もなかったかのごとく英語を喪失しまっている。

 だが、ESS活動を通して得た最大の収穫は、英語が単なるコミュニケーション手段に過ぎないということを知ったことである。いくら英語が話せても、その英語を通じて何かができなければ意味がない。それは、在学中からアメリカ人留学生を通して気づかされていた。

 留学生の多くは、日本に憧れてきている優秀な学生たちである。その彼らがしばしは発する質問に、私たちは戸惑っていた。

「カブーキ、ジュウハチバン(歌舞伎十八番)、ウイローウリ(外郎売り)、いいですね。アナータ、何が好きですか」

「ゼン(禅)について、今のニホンジン、どういう考え、持っていますか」

「キョート(京都)、ヘイアン(平安)よりムロマチ(室町幕府)の気配がイロコーイ(色濃い)、私の考えマチガイですか」

 我々は、何一つ彼らの満足するような答えを持ち合わせていなかった。あまりにも日本文化について知らなかったのである。留学生との交流は、日本を見つめなおすいい機会となった。

 国際人とは、自国の文化、歴史、芸術、文学などをしっかりと身につけて初めて成り立つのである。仏教、神道とは何か、武士道とはいかなるものか、そんなことを知らずして国際人たり得ない。

 私は英語を通してディベートの手法を学んだが、「和をもって貴しとなす」という考えが骨肉に染みついており、ディベートに対してさえ違和感を覚えていた。

「敷島の大和ごころを人とはば 朝日に匂ふ山桜花」

 君たちには理解できないだろうが、これが日本人の心だ、と改めて思っていた。これがESSを通して得た私なりの収穫であった。


 入部当初、創部五十数年といわれていたESSも、現在ではすでに八十年を超していることになる。驚嘆の思いを禁じ得ない。

 当時は、ディベート、ディスカッション、ドラマ、ガイドの四セクション制であったが、現在ではスピーチ、ガイド、ディベートの三セクションになっている。現在の彼らは、ホームページを持ち、部員の紹介や活動内容を写真とともに掲載している。セクションごとに掲示板を持ち、情報のやりとりを行なっている。夜遅くパソコンを眺めながら、かつての自分をそこに見出そうとしてみるが、隔世の感は否めない。だが、行事に参加している彼らの写真を見ていると、当時と何ら変わっていないことに気づく。

 十数年前に、同期だけが集まって京都で同窓会を行ったことがある。私にも声がかかった。久しぶりに会った彼らの前で、私は真っ先に退部したことを詫びた。ほとんどの者が、私の退部すら忘れており、昔のままに接してくれた。その日は四条河原町附近で飲んで、二次会は先斗町の小さな店で時間を忘れて痛飲した。

 だが、彼らがどんなに以前と変わらず接してくれても、私の中には埋めることのできない寂しさがある。OB名簿に私の名前がないのだ。OB会は毎年一回、祇園篝火という料亭で行われていた。現役生が総出で接待する緊張感のある行事であった。

 OB会に出られないのが残念なのではない。青春の情熱を一身に傾けたグループに、自分が存在していないことが、痛恨の極みなのである。悔やんでも悔やみきれないことである。

 昭和五十八年(一九八三)に大学を卒業して、すでに二十五年の歳月が流れている。ただ、私の場合、父の危篤に遭遇し卒業式に出ていない。そのせいか、いまだに大学を卒業した、という実感がもてないでいる。つまり、成仏していないのだ。ESSでの仲間との思い出が、つい数年前のことのように鮮明に蘇る。私の年齢は二十三歳で止まっているような気がしてならない。

「自分、出身、北海道やてぇ。そんなら巨人ファンやろ。そらぁ、あかんわ。東京のやつらはな、気取ってえらいえばりくさっとぅけど、京都の東にあるから東京都なんやでぇ。天皇さんが移らはったから。京都に憧れて来たんやったら、阪神ファンにならなぁあかん」

 こんな訳の分からない当時の会話が、ふとした拍子に頭の中に浮かんでくる。

「青春とは自分を探す長い旅の靴紐を結ぶ時」といったのは、詩人茨木のり子氏であるが、私にとってのESSは、まさにそのスニーカーであり、青春そのものであったといえる。

                                 (了)


                平成二十年八月 立秋  小 山 次 男