Coffee Break Essay




 『我が青春のESS』

 (十五)

 ESSに入部し、KFCのディベ専を引き受けたことにより、京都はもとより関西一円の大学に足を運ぶことができた。時には東京まで足を伸ばすこともあった。この一年間は、自分の大学にいる時間より、よその大学で過ごした時間の方がはるかに長かった。一般の学生が経験できない幅広い交友関係に恵まれ、それが現在の私の宝となっている。

「これからの医学は脳やと思う。見てみぃ、この単語」

 脳外科医を目指す京大の先輩が、分厚い医学書を見せてくれた。一日に一〇〇個の単語を覚えるという。ディベート大会が進行する中、幹部控室で一心不乱に勉強する彼の姿が印象的だった。

 連盟主催の勉強会の合宿で、まわりになじめずひとりポツンと孤立している男がいた。彼は京大文学部で哲学を専攻している同輩であった。彼を囲んで話しているうちに数名の女の子も加わってきた。男と女、恋愛とSEXについて、夜の更けるのも忘れて熱く語りあった。ディベートでも見せたことのない白熱した議論となった。

 四半世紀の時を経た今でも、断片的に思い出す場面が数多くある。当時は、楽しさよりも、厳しさや大変さの方が勝っており、無我夢中だった。

 三回生の後半、十一月に入ってから、私は授業へ顔を出すようになっていた。だが、自分の授業の担当教授の顔すら分からない。恐る恐る教室に入って、真面目そうな女の子を見つけては、

「あの……、ここは民事訴訟法のK先生の授業ですか」

 と訊いていた。たいがいの女の子は呆れた顔をするが、なかにはクスッと笑いながら好意的に接してくれる子がいる。そんな子からは、授業の進み具合やノートを見せてもらうことができた。だが、そんな勉強は付け焼刃に過ぎなかった。大学の試験は、そんなに甘くはなかった。私は三回生で専攻していた学科の単位をことごとく落とし、四回生では留年の窮地に立たされていた。目いっぱい授業があった。追い討ちをかけたのが、卒論と就職活動であった。

 卒論提出が一カ月後に迫った昭和五十七年十一月十日の夜、実家の母から思いもかけぬ電話があった。父が入院し、年を越せないかも知れないという知らせである。肝硬変であった。そのとき私は、まだ卒論を書き出していなかった。

 それから一週間、昼夜敢行で卒論に取りかかり、担当教授の便宜で、提出日前倒しで学部事務室に提出した。教授から直接手渡すようにいわれたのが、あのライマン教授の一件の事務長だった。奥の部屋から出てきた彼が、私の顔を見て目を丸くした。

「お前やったんか。話は聞いてるさかい、はよぅ、帰ってやりぃ」

 この時ばかりは妙に優しかった。

 北海道に帰った私は、正月明けの試験を目指し、父の病室の傍らで猛勉強を始めた。同室の患者や看護師までが、「勉強熱心な立派な息子さんだ」と私を褒め称えた。主治医に至っては、司法試験の勉強ですかと真面目な顔で訊いてくる。瀕死の父を前にして留年の瀬戸際だともいえず、私は笑ってごまかすしかなかった。

 試験には何とかギリギリで受かることができた。卒業式も出られぬまま、父を看病する病室から就職のため東京へ向かったのである。肝臓はすでに機能していないのだが、と主治医が首をかしげるなか、父は六月まで命を保った。

 留年をかけた四回生での試験勉強は、二十五年を経た今でも、時折夢でうなされるほどのトラウマとなっている。

 (つづく)



                平成二十年八月 立秋  小 山 次 男