Coffee Break Essay




 『我が青春のESS』

 (十四)

 部活を三年間やった者が退部届けを出すことは、常識では考えられないことである。四回生は名誉部員のようなもので、ほとんど部活に参加する必要がなかったからである。それでも辞めると決めたのは、当時の私の潔癖性がなせるものだった。それが今、悔やんでも悔やみきれないほどの悔恨となっている。私には、それ以外の選択肢がなかったのだ。えらそうな顔をして後輩の前に顔を出す自分が、許せなかったのである。

 退部という行為は、私が最も忌避していたもので、それまで退部をほのめかす同輩や後輩に対しては、慰留させるために必死で説得してきた。特に後輩の場合は、何度も呼び出し、夜を徹して説得したこともあった。後で絶対に後悔する、この苦しさを一緒に乗り越えよう。苦楽を共にしてきた仲間やないか、といって思い留まらせてきた。そんな後輩たちが、私の言葉を信じて頑張っていたのである。

 彼らを裏切って、私は誰にも相談することなく、退部届けを出したのである。それは私を育ててくれた四回生の先輩をも裏切る行為であった。彼ら四回生をフェアウェルで送り出すというのが、三回生の最大の使命なのだが、私はもはやフェアウェルまで待てなかった。考え抜いた末の決断だった。

 私の退部を知った先輩、後輩が連日のようにアパートにやってきた。彼らに合わす顔がなかった私は、できるだけアパートにいないようにしていた。だが彼らは、夜遅い時間や午前中に訊ねてきて、執拗に慰留を迫ってきた。

 四回生の前チーフは、何度私のところに足を運んだことか。最後に来たとき、

「お前な、俺は梅本さんにしこたま怒られたわ。なんでそこまでお前を追い詰めたんや、って。梅本さん、東京から飛んで来そうな勢いやったでぇ」

 梅本さんは私が一回生のときのチーフで、私にとっては絶対的な存在であった。私がチーフになる際も、連日連夜私のアパートに訪ねてきて、チーフとしての心構えや、ディベートのノウハウを叩き込んで卒業していった。

 あのとき俺を引き止めたのはあなたやないか、辞めんといて下さい、と食ってかかりながら泣きついてきた後輩もいた。そんな彼らの姿を見て、私は自分の罪深さを強く感じていた。

 もし私がESSに留まったとして、そんな私をフェアゥエルで送り出す後輩の姿を想像すると、それに甘んじている自分が許せなく、耐え難かった。彼らの熱心な説得に対し、どうか私にとって大学生活最後の一年、自由な時間をください、といって頭を下げていた。今考えると、バカげているのだが、私は頑固で不器用だった。周りから見ると、私の行動は理解できなかったに違いない。


 昭和五十六年十二月十七日、私は北海道へ帰省すべく日本海回りの列車に乗っていた。京都盆地を抜けた列車は、琵琶湖にそって北上してゆく。窓外の景色を眺めていると、湖畔に和邇浜(わにはま)が見えてきた。涙が次から次ぎへと溢れてきた。私は心の中で彼らに詫びていた。

 和邇浜は、毎年、ディベートのメンバーが一泊でクリパ(クリスマス・パーティー)を行う場所で、その日がちょうどクリパにあたっていた。クリパは、ディベートの全ての行事が終わった打ち上げであり、それを仕切るのは一回生であった。一回生にとっては、初めて自分たちが企画するイベントであった。

 一晩中飲んで騒いで、それでももの足りなくて、小波が寄せる湖畔に出て走ったりわめいたりしていた。月光に照らされコバルト・ブルーにきらめく湖面を眺めながら、仲間たちと語り合った記憶が蘇る。チーフ不在のクリパなど、あってはならないことだった。

 彼らは今ごろどんな気持ちでクリパの準備をしているのだろうか、そんな思いが胸にあふれていた。


 やがて列車は暗鬱な雲が垂れ込める日本海に出た。私は思い立ったように金沢の駅で途中下車した。眺めていた時刻表の地図に、富来(とぎ)という地名を見つけ、能登半島へ向かうバスに乗り込んでいた。

 富来は、高校時代の現代国語の教科書にあった、作家福永武彦氏の随筆の舞台となった地である。そこにある湖月館という旅館へ向かったのである。私は重い気持ちを引きずりながら、思いつきの旅に踏み出そうとしていた。  (つづく)


                平成二十年八月 立秋  小 山 次 男