Coffee Break Essay




 『我が青春のESS』

 (十三)

 私が三回生のときに、龍大が初めて上智大学のディベート・コンテストに参加した。上智は単独で大規模なディベート大会を主催していた。一大学で全国レベルの大会を開催するということは、驚嘆に値するものであった。また、KIDL(関西大学対抗ディベート・リーグ)にも初めて加盟した。龍大の先輩チーフたちは、私よりはるかに実力があったが、いずれの大会も、これまで出たくても出られなかったものだった。

 京都女子大学もこれらの大会に参加したことがなかったが、

「うちらも出たいねんけど、なんとかならへんやろか」

 と頼まれ、それぞれの代表者にお願いしたところ、すんなり参加が認められた。KFCのディベート専門委員長という肩書きにゾッとした。私にとっては、後味の悪い後ろめたさであり、自分が虎の衣を借りているという思いが拭えなかった。

 いずれの大会も龍大は僅差で予選落ちとなってしまった。KIDLの大会には私と冨島がペアーを組んで出場した。初戦の対戦相手は皮肉にも京女で、からくも勝ったように記憶しているが、次の甲南大学に負けてしまった。負けた理由は、私のセカンド・ネガティブ・コンストラクティブ・スピーチ(反対派の第二反論スピーチ)のマズさにあった。それを指摘したのは、偶然にも我々のジャッジに当たっていたR・マクドーナルである。


 私はディベ専になってから、大阪、神戸、名古屋、東京とあちこちを飛び回っていた。京都にいるときも、立命館や同志社や京都教育大など、よその大学で過ごしていることが多かった。

 KFCの秋の二人制ディベートをなんとかこなし、ウエスト・ジャパンが終わったときには、疲労の極に達していた。自分の能力をはるかに超えた仕事をしていた。このままだと、過労で倒れるのではないかと思った。

 ディベ専としての最後の仕事は、KFCの五人制ディベート(DFIK)である。これは連盟内だけの一回生中心のディベートで、ジャッジは各大学のディベートのチーフが行う。

 前年、京都大学で行われたこの大会の記憶は、ファイナルで入場してきた五名の先輩ジャッジが、全員がコート姿であったことである。教室がとても寒かった。京大の教室は小規模ではあったが、教壇を取り囲むすり鉢状になっており、教壇は通常の四、五倍の高さがあった。教卓には装飾があり、学生が座る机や椅子も星霜を思わせる黒々とした光沢があった。日本の最高学府という威厳が漂う、明治を髣髴とさせる教室であった。

 私はこの五人制ディベートの段取りを整え終えたところで、突然、高熱を発してしまった。大会の三日前のことである。四十度近い発熱で、大会前夜には微熱になったのだが、宇宙遊泳をしているようなふらつきがあり、結局、代役を他のメンバーに託すことになった。

 この大会では、ディベ専がファイナルのチーフ・ジャッジを務め、ステージで総評をするという大役があった。ディベ専の晴れ舞台であったのだが、それをフイにしてしまった。大変ショックなことで、最後までやり遂げられなかったことへの痛恨の思いが長く尾を引いた。

 関西には四回生のディベートの要職経験者だけで組織する団体(名称を失念してしまった)があった。ディベートの最高顧問のような組織で、各連盟へジャッジを紹介したり、ディベートのテーマに対する資料提供を行っていた。

 KFCの全ての仕事が終わろうとしていたとき、この組織の委員長から次期委員長の誘いを受けていた。それは私の能力を完全に超えるものであったので、迷うことなく断った。そんなものを引き受けていたら、私は間違いなく留年していたに違いない。

 私は、一回生、二回生とほぼ順調に大学の授業の全単位を取っていたが、三回生ではほとんどの授業をボイコットしていたため、年明けの試験では、ことごとく単位を落としてしまった。大学というところは、三年間満単位をとると、最後の一年は卒論だけで済むようなカリキュラムになっていた。

 ディベ専の主な仕事が終わったころ、私は燃え尽き感に苛(さいな)まれていた。完全燃焼ではなく、不完全燃焼であった。それは、自分の能力を超えた仕事を引き受けたのはいいが、そのせいで自分の大学の後輩に対する指導が全くできなかった、という深い悔恨であった。私はひどく落ち込んでいた。その結果、次期KFCディベ専への引継ぎを終えた十二月、私は龍大ESSに退部届けを出したのである。

  (つづく)



                平成二十年八月 立秋  小 山 次 男