Coffee Break Essay




 『我が青春のESS』

 (十二)

 私がディベ専になってすぐのころ、京都女子大学のディベートのチーフから、春のディベート・コンテストのテーマであった防衛問題に関するレクチャーをしてくれないかと頼まれたことがある。

「うちら女の子は防衛問題に疎いねんわ。お願いや、な」

 と手を合わされたのである。

 私が龍大のディベセク(ディベート・セクション)に入ってすぐ、三回生のチーフから防衛白書を買うようにいわれギョッとしたことがあった。このクラブは何だろうと思ったのだ。ちょうどその年のディベートのテーマが防衛問題であった。防衛白書は、半年でボロボロになるほど読み込んだ。大学での私の専攻が国際政治論だったこともあり、防衛問題は興味のある分野だった。とはいうものの授業にはさっぱりと出ていなかった。

 京女へ行くためには、京阪電鉄の七条駅で降り、東山へ向かって歩く。三十三間堂を右に見ながら、東大路七条通りに出たところで知積院と妙法院の間の緩やかな坂道を登る。その坂道の奥に京女があるのだが、そこには京都女子中学・高校・短大・大学があり、通称、女坂と呼ばれていた。

 京都に来たときから女坂の存在は聞いていたが、実際に歩いたのはこのときが始めてであった。ちょうど下校時間にあったっていたので、ガヤガヤとおしゃべりをしながら、次々と女の子が坂道を降りてくる。その数たるものや大変なもので、私ひとりが女性の波を掻き分けるように坂道を逆行していた。すれ違う彼女らの視線が露骨に刺さってくる。このさして広くもない女坂、登下校時には八千人ともいわれる女性で賑わうのである。

 やっとの思いで京女の門の前に立ったが、約束していた京女のチーフが見当たらない。女子大生が怒涛のように門から出てくる。こういう場合、オドオドしてはいけない。私は意を決してその門を突き進んだ。いくらも歩かないうちに、駆け寄ってきた門衛に後ろから腕を捕まれ、

「あんた、いかんがな、勝手に入ったら」

 許可証が必要だという。間もなく彼女が現れ、難なく開放されたのである。女子大恐るべし、私は耳から湯気が出るほど汗だくになっていた。


 KFCには委員長や副委員長がいるが、大きな発言権を持っていたのが、ディベ専であった。ディベートという特殊な技能が一目置かれていたのである。京女のチーフに従って教室に入ると、二十名ほどの女性がいっせいに起立し、

「よろしくお願いしますぅ」

 と京風のアクセントでいわれ、カッーと頭に血が上った。汗を拭き拭き教壇に立ったところで、鼻の奥に鉄錆びのような臭いを感じた。アッと思った瞬間、鼻血が流れ落ちた。女にあったってしまったのである。クスクスという笑いが聞こえ、しばらく休憩した後、鼻にティッシュを詰めて再び教壇に立ったのであるが、私のその姿にとうとう笑いの堰(せき)が決壊し、しばらく私も一緒になって笑い続けた。この一件のおかげで、終始和やかな講義となったのであった。


 KFCのディベ専をしていても、合間を縫って学内のイベントには参加しなければならない。毎年、重荷だったのは、オラコン(英語弁論大会)である。ガイドのメンバーはオラコンに力を入れていたが、ディベートは、なかなかオラコンにまで手が回らなかった。大会と時期が重なっていたのである。

 このオラコンは学内で二度の予選が行われ、上位三名が学長杯争奪英語弁論大会に出場することになる。一回生のレシコンでモッサンに鍛えられた私も、完璧に暗証していたスピーチを本番では必ずとちっていた。チーフが悪い成績を出すわけには行かない。学内の二次選考まで進んだ私は、舞台裏にこっそりと缶ビールを持ち込み、それを一気に飲んで本番に臨んだ。

 相変わらず緊張したが、アルコールが功を奏し、結果は五位となった。私が一回生のとき、ディベートのチーフであった梅本さんが他大学の学長杯に出場し、優勝していた。副賞は、一カ月間のオーストラリア旅行であった。スピーチの内容がどんなものだったかは忘れてしまったが、梅本さんは、私に最も影響力を及ぼした先輩である。私の実力は、彼の足元にも及ばなかった。

  (つづく)



                平成二十年八月 立秋  小 山 次 男