Coffee Break Essay




 『我が青春のESS』

 (十一)

 名誉挽回を託し、私はファイナルのクロージングの司会を産大の彼女に託したのである。試合の数日前、最終打ち合わせの中で彼女を指名した。クロージングの司会というのは、ディベ専から選ばれる名誉な役となっていた。

 秋の二人制ディベートは、三回生にとって大学生活最後の集大成の試合であった。パンツ(選手)にとっては生涯忘れがたい試合となる。それが私にとっても忘れられない試合となった。

 ファイナルは、関西学院大と上智だった。試合後、ジャッジ・ルームでの議論が白熱した。甲乙つけがたい、いい試合であった。ファイナルのチェアマンをしながら、私自身勝敗を決めかねていた。英語力では圧倒的に上智であったが、ディベートの試合では英語力は問われず、あくまでもロジック(論理)が重視された。

 十五分で終わるはずのジャッジ・カンファレンスが三十分にもおよんだ。五名のジャッジの総合得点では、関西学院大が上回っていたが、勝者は上智ということになった。ディベートでは、総合得点で上回っていても試合に負けることがある。

 私は、五名のジャッジのバロット・シート(採点表)を集め、各自の点数と優勝校を確認した。そのバロットを持って幹部の控室へ急ぎ、待っていた司会役の彼女の前でメモを書いて渡した。メモには大学名とその横に総合得点を記入し、勝者に丸印をつけた。

「ええか、総合得点では関西学院、勝者は上智や、ええな」

 この時点で勝者を知れるのは、ジャッジ以外では私と控室にいる委員長と副委員長、それに彼女の四名だけである。私がバロットを持って入った時点で、それ以外のメンバーは外に出された。緊迫した雰囲気の中で、幹部に囲まれた司会の彼女は、ことのほか緊張していた。

 時間が押していたこともあり、会場に向かう廊下を歩きながら、私は彼女にいくつかの指示をしていた。今回は得点の高い学校と勝者が違う。発表するときは、アファマティブ・サイドの大学名、得点、それにネガティブ・サイドの大学名、得点、そして勝者の順だが、ネガティブの得点を発表した後、間髪入れずに勝者をアナウンスしろ、そうしないと会場が、点数だけで判断してしまうから、とそんなことをいい含めていた。

 我々が会場の最前列の席につくと、騒がしかった会場の空気が一気にピーンと張り詰めた。ステージの脇に立った彼女の足が小刻みに震えているのが目についた。彼女の視線が私に注がれている。私はジャッジの入場を準備している運営委員長からの合図を待っていた。

 私が小さく頷くのを合図に、クロージングが始まった。司会者が、ジャッジを会場に迎え入れるため、全員に起立を促す。続けてチーフ・ジャッジの総評がある。D・ホプキンスが、今日の試合がいかに僅差のいい試合であったかを、ウィットに富んだスピーチで締め括った。

 結果発表は、チーフ・ジャッジからではなく司会者が行う。ステージ中央の演台の前に立った彼女が、打ち合わせどおり発表してゆく。会場が水を打ったようにシーンとしている。彼女の声が緊張して震えているのが分かった。

「……ソー・ディシージョン・ゴウ・トゥ……(ということで勝者は)」

 といったとたん、会場の一角にいた関西学院側から悲鳴にも似た大きな声が上がった。その声に焦った彼女は、次の瞬間、

「アファマティブ・サイド……」

 といってしまったのである。何を血迷ったか、敗者の側をアナウンスしたのだ。

 私は、耳を疑うと同時に、立ち上がり、大声で両手を振りながら、

「ノォー、ノー」

 と叫び、ステージに駆け上がった。バロットの点数と勝者が違う旨を説明し、改めて勝者を宣言した。上智サイドからの喜びの声と、会場の拍手を上の空で聞いていた。

 私と幹部は、クロージング・アドレス終了後、関西学院大学の席に駆け寄り、平身低頭で謝ったのであった。関学の落胆ぶりは、見ていられないほどであった。

 全て終了した後、司会の彼女が別のデリゲに肩を抱えられるようにして控室にやってきた。スイマセンでした、という言葉も聞き取れないほど憔悴していた。

「緊張したなぁ、今日は」

 と声をかけると、そのまま泣き崩れてしまった。

「この悔しさ、来年の自分の試合で頑張れ」

 私がかけられる精一杯の言葉であった。

  (つづく)



                平成二十年八月 立秋  小 山 次 男