Coffee Break Essay

 『我が青春のESS』

 (一)

 私の大学生活は、ESSにどっぷりと漬かった三年間であった。

 ESSとは、イングリッシュ・スピーキング・ソサイアティーの略で、一般には英語研究部と称している。

 大学内では入学式直後から、各クラブによる過剰ともいえる新入生の争奪戦が繰り広げられていた。大学とはこういうものなのかと思いながら、その過激な勧誘に触発され、どこかへ所属しなければ、という強迫観念に迫られていた。

 クラブの候補はいくつかあった。落語研究会、速記クラブ、剣道部、そしてESSである。それぞれに入部の動機があったが、受験で散々痛い目にあった英語を何とか克服したい、せめてしゃべれるようになりたいというのが、ESSを選んだ理由である。

 入部早々、先輩たちから熱烈な歓迎を受けた。新歓コンパ(新入生歓迎コンパ)である。ウィスキーのグラスを持った三回生の先輩が隣の席にやってきて、耳元で囁いた。

「京美人、京美人いうけどな、あれ、ホンマはちゃうねんで。自分、なんでかわるか」

 唐突な質問と聞き慣れない関西弁、大人びて見えた三回生に戸惑っていると、

「京都はな、正確にいぅたら、京都府やろ。そやさかい、京都フ美人や」

 傍(かたわ)らで私たちの会話を小耳に挟んだ女の先輩が、すかさず横槍を入れてきた。

「京都の男は、ホンマにあかんわ。ネチネチ、ネチネチしおるさかい」

 今でこそ焼酎が主流だが、当時は文科系のサークルはウィスキー、体育会系は日本酒と決まっていた。北海道弁丸出しの私への好奇心もあってか、いろんな先輩が話しかけてきて、目が回るほど飲まされた。関西の大学では北海道出身者は珍しい存在だった。正式に酒を飲んだのはこの時が初めてで、これが大学生活というものか、という開放感に浸っていた。この日は二人の先輩に抱えられ、アパートまで送り届けてもらった。ESSでは、この新歓コンパをウェルカム・パーティーと称し、体育会系の連中からはバター臭いと揶揄(やゆ)されていた。

 私の学生時代は、一九七九年からの四年間である。ふり返るとあれから二十五年が経過している。四半世紀という言葉が頭をかすめ、改めて愕然とする。私にとっては、いまだについ数年前のような感覚なのである。

 当時、すでに学生運動はひと昔前の話になっており、すでに大学が軟弱学生の楽天地となっていた。元長野県知事の田中康夫氏の『なんとなくクリスタル』がベストセラーになっていたころである。私はそんな軟弱学生の一員となった。

「女の子、いっぱいおるし、楽しいでぇ」

 と勧誘され、男子校出身の私は、女の花園に踏み入る気分で入部した。一部からはESSをエロ・スケベ・ソサイアティーと囁く向きもあったが、卒業後数年して同じ部内で結婚している者が多いことから、まんざら不埒な囁きではなかったのかも知れない。残念ながら、私はその恩恵には与(あずか)れなかった。

 外見的な華やかさとは裏腹に、龍谷大学のESSは、創部五十数年という硬派のクラブであった。たとえばフェアウェル・パーティー(卒業生追い出しコンパ)では全員スーツ着用で、三回生の幹事長がスピーチの最後に先輩への餞(はなむけ)として漢詩を読む慣わしがあった。おもむろに内ポケットから奉書を取り出し、墨書された漢詩を詠むのである。漢詩といっても難しいものではない。

「渭城(いじょう)の朝雨(ちょうう) 軽塵(けいじん)を浥(うるお)す 客舎(かくしゃ)青青(せいせい)として柳色(りゅうしょく)新たなり……」

 といった高校の教科書レベルのものである。フェアウェルの場所は、京都駅前の佐野屋旅館と決まっていた。

 幹事長の挨拶の後、四回生一人ひとりのスピーチがある。それが一時間以上にわたって延々と続く。倒れそうになりながら、畳の大広間に立ちっぱなしでその話を拝聴する。四回生は神様であった。その後宴会となるのだが、ひとつのテーブルに、四回生が一人と決まっており、後輩が分散してテーブルを囲んだ。四回生の数だけテーブルが用意された。クラブは五十名の大所帯であった。

 堅苦しく始まったフェアウェルも半ばを過ぎると、席が入り乱れ大宴会の様相を呈してくる。一回生にとって四回生は近づきがたい存在であったが、二回生、三回生には格別な思い入れがある。

「アンドー、オレと結婚してくれー」

 したたかに酔った四回生の梅本さんが、畳の上に大の字になって叫ぶ。その上に二回生、三回生が折り重なってゆく。当の安藤さんは、また梅本が叫んでいるといった顔で、まるで相手にしていない。実らない恋も数多くあった。

 最後に全員で肩を組みながらESSソングを歌い、コーリングを行う。コーリングとは、高校球児などがベンチ前に集まってサークルを作り、「行くぞ! おお! ファイト! ……」とやるようなものを、何度も何度も英語で繰り返すのである。血気盛んな若者の血が横溢する宴会であった。旅館にとってはたまったものじゃなかっただろう。

 (つづく)

                平成二十年八月 立秋  小 山 次 男