Coffee Break Essay




 運転不適格者


 私が車の免許を取ったのは、二十一、二十二歳のことで、大学の春休みの時期だった。年齢の記憶が曖昧なのは、免許の更新を忘れて一度失効しているためである。場所は、ふるさと北海道・様似(さまに)の隣町、浦河町の自動車学校だった。それがそもそもの間違いだった。

 もう三十五年以上も前のことになるのだが、当時の最初の路上運転は、信号機のない牧場だった。直線道路が何キロも続く道で、私は苦戦を強いられた。

「おい、フラついているぞッ! 遠ぐを見ろ、遠ぐを!」

 教官の檄(げき)が飛ぶ。教則には二〇〇メートル先を見るとある。私は渾身の力でハンドルを握りしめ、食らいつくようにして先を見つめる。それでも蛇行は止まらない。

「おい、どこ見てンだ、まだフラついてるぞ! もっと遠ぐッ!」

「せ、先生……、遠くって……どこですか」

「地平線!」

 その一言で、私のフラつきはピタリと収まった。

 教習場に通い始めた初日に行われた運転適性試験で、私は「運転不適格者」であると告げられた。

「お前はやがて免許が取れる。だけどな、車には乗らない方がいいと思うんだ。わかるよな」

 面談した担当教官から、しみじみと言われた。

 免許が取れ、これで車に乗らなくてすむと安心していると、「すぐに乗らなきゃ乗れなくなるよ」、と母がよけいなことを言った。おかげで、最初の一年半で六回も車をこすってしまった。

 東京で就職してからも最初のうちは車に乗っていた。だが、すぐに化けの皮が剥がされ、「こいつはダメだ」というレッテルに貼り替えられた。

 以来、車に乗る機会は実家に帰省したときだけになった。帰省は年に一度のことである。いなかの道には二車線などなく、飾り程度の信号機がいくつかあるだけだった。十年ほど帰省できなかった時期もあったので、その間は、まったく車の運転をしていなかった。

 二〇一一年三月、私は二十八年間の東京での生活を終え、北海道・室蘭市に転勤になった。通勤は徒歩だったが、仕事で車に乗らなければならない。幸い私が住んでいた地域は交通量が少なく、夜の遅い時間に運転の練習ができた。

「もう少しスピード出さないと、逆に危ないですよ」

 気づくと時速三十キロ台で走っていた。路線バスにも軽々と抜かれる、そんな私の運転を見かねた同僚がささやいたのだ。私は車が怖かった。私にとって自動車は利便性の高い乗り物というよりは、人を殺(あや)めかねない道具であり、どこに飛んでいくかわからない鉄砲玉のようなものだった。

 二〇一三年に札幌に異動になってからは、車通勤である。やむなく自動車を購入した。どうせ半年もしないうちに大破させてしまうに違いない。むかし、刑事コロンボが乗っていたような車はないかと尋ねたら、そんなものはないと言下に断られた。そのかわり、運転のしやすい小型車を見つけてもらった。車にまったく興味のなかった私は、車種の選定から車内の装備まで、すべてを同僚に任せた。私は石油販売会社に勤務しており、同僚にはその道のプロが大勢いた。

 彼らが選んだ車は、トヨタのヴィッツだった。高級外車と今の車を並べ、好きな方を選べと言われたら、私は躊躇うことなくヴィッツを選ぶだろう。私が車を選ぶ基準は、スーパーの駐車場に難なく止められるかどうか、その一点だけである。ヴィッツでも悪戦苦闘の末の駐車なのだ。

 近藤が左折ばかりの運転で通勤している、そんな噂が広まったのは、札幌生活を始めてほどなくだった。運転に慣れるに従い、右折ができるようになった。だが、車線変更はいまだに緊張する。

 運転不適格者というレッテルは、三十五年を経た今もなお、劣化することなく貼りついている。だが不思議なことに、札幌に来てから一度も車をぶつけていない。私の運転技術が向上したのではない。危険運転は日常茶飯事で、車に乗るたびにクラクションを鳴らされ続けてきた。周りが上手く事故を回避してくれていたのだ。そういう意味では、札幌市民に感謝している。

 札幌に住み始めて五年、走行距離は間もなく五万キロに届こうとしている。自宅から会社までは三キロほどの距離である。私はこの五年の間、ほぼ皆勤賞に近い形で日曜・祝日をドライブに当てている。

 ふるさと様似で一人暮らしをしていた母が脳梗塞に倒れたのが平成二十年のことだった。以来、妹と二人、札幌で暮らしている。その母と妹を乗せて走るのだ。母はウイークデーはデイサービスに通っているのだが、休日になると自宅のソファーに横になってばかりいる。外に連れ出さなければ寝たきりになってしまう、そう危惧したのだ。

 認知症が出てきた母は、すでに枯淡の境地にいる。後部座席にいて窓外の景色を眺めているのだが、どういう思いでいるのかは知る由もない。助手席では妹が、私が信号無視や一時停止の標識を見逃さないよう、常に目を光らせている。

「今、信号、赤じゃなかった?」

「えッ? ゴメン、気づかなかった……」

 ドライブを楽しむという状況ではない。

 母がいなければ、私は北海道に戻って来ることもなかったし、車に乗ることもなかった。そういう意味で母は、私がペーパードライバーになることを二度も阻止したことになる。不要な運転は可能な限りしないようにし、無事故記録を続けて行きたいと思っている。

 

                   平成三十年二月  小 山次男