Coffee Break Essay


この作品は、同人誌「随筆春秋」第39号(2013年3月発行)に掲載されました。

 
 「妻と別れて」



 妻が出ていった。

 会社から帰ると、妻の物がきれいになくなっていた。どこかに置手紙があるのでは、と見回すと、食卓テーブルの隅に小さな付箋が貼られていた。丸味を帯びた妻の字で、「後日連絡します」とあった。それだけだった。

 その日の午前中、大学生の娘から会社に電話があった。

「ねえ、あの人、今日、出ていきそうなんだけど……」

 春休みの娘がアルバイトに出かける時間を、妻がしきりに気にしていたという。妻の不穏な空気を察した電話だった。娘はいつの間にか母親のことを「ママ」ではなく、「あの人」と言うようになっていた。

「どうだ、もういいんじゃないか。オレたち、やるだけのことは十分やったよなぁ」

 そう娘に向けると、

「……わかった」

 とひとこと言って、娘は電話を切った。私が妻を見限り、娘が母親を諦めた瞬間である。平成二十二年三月のことである。

 妻との結婚は平成元年で、私が二十九歳、妻は二十歳だった。結婚五、六年目だったか、忙しさに紛れて結婚記念日をうっかり忘れ、飲んで帰ってひどい目にあった。以来、「シ・ク・ハック」と覚えた。四月九日、八九年である。その後、私は四苦八苦どころか七転八倒、辛酸を嘗めることになる。

 結婚八年目の冬、妻が精神疾患を発症した。境界性パーソナリティー障害に、重篤なうつ病を伴っていた。人格障害という唐突な宣告が、なかなか受け入れられない。だが、悲嘆に暮れてばかりもいられなかった。現実の生活が目の前にあった。娘はまだ小学二年生だった。

 闘病病生活は三カ月、いや、半年は覚悟しなければ。ずいぶん長いな、そんなふうに思っていたが、結果的に十二年半が過ぎていた。

 その間、妻は十二回の入退院を繰り返した。死と背中合わせの日常だった。妻は、処方されている抗うつ薬や睡眠導入剤を、一度に全部飲んでしまうのだ。そのたびに病院へ運ぶ。過量服薬が七回、飛び降り未遂が二度あった。最後に飲んだ薬の量は、三四二錠。空包をかき集めて救急車に乗るので、どんな薬を何錠飲んだか、正確に分かった。よく助かったものだ。

 妻の症状は、気分の落ち込みと漠然とした不安、加えていくつかの妄想があった。中でもひどかったのが嫉妬妄想である。私が浮気をしているという疑念がとめどなく湧いてきて、暴力が始まる。殴る蹴るの末、包丁を持ち出し、「いい加減に白状しろ」と。それが夜中の一時、二時と続く。(妻は悪くない。病気が悪いのだ)私は呪文のように唱えながら、身を丸くして嵐が過ぎ去るのを待った。

 会社の緊急連絡網を探し出し、女子社員に電話したこともあった。「主人とは、どのような関係ですか」と。

 娘が高校生のとき、ひどい湿疹ができ、一緒に病院へいったことがある。

「ジベルバライロヒコウシンです。よくあるんです、この年齢の子に」

 若い医師が病名をメモ用紙に書いて見せてくれた。釘で引っ掻いたような字で「ジベルばら色粃糖疹」とある。それを覗き込んだ娘が、

「人生バラ色にして欲しい、みたいな病名だね」

 と呟くと、医師が膝を叩いて笑った。私と娘はチラリと顔を見合わせ、苦笑いした。

 上司の言葉に救われたこともあった。

「お前、だいじょうぶか。本当は、大変なんだろう。少し外をふらついて来いよ」

 私の机の傍らでそっと呟く。その言葉に胸が一杯になり、

「ありがとうございます。だいじょうぶです」

 と言って上司から目をそらし、天井を仰ぐ。こぼれそうになる涙をこらえていた。

 私はぎっくり腰に始まり、胃潰瘍、帯状疱疹、メニエール(目眩)と、神経性の病気を繰り返していた。

 私も娘も、そして妻も、傷つき、打ちのめされ、燃え尽きそうになっていた。それぞれに「どうして私だけが……」という思いを呑み込んでいた。私が諦めたとき、全てが終わる。妻は間違いなく死を選ぶだろう。だから、負けるわけにはいかない。娘から母親を奪うことだけは避けたかった。

「『人は負けると知りつつも戦わねばならぬ時がある』という父の信条を、私の信条として生きてきた。いかなる時も困難から逃げずに進めば、必ずや道は開けると信じてやってきた」

 この生活の中で出会った作家佐藤愛子の言葉である。私はこの言葉を杖に、すがるように生きてきた。倒れたら立ち上がる。どうせ逃げられないのだから、正面から立ち向かう。刀折れ矢尽きるまで、力の限り闘い抜く。そんな気持ちで過ごしてきた。と、いえば格好いいが、本当は逃げ出したくて仕方がなかった。怖くて逃げられなかったのだ。

 妻が病気になってから、私はエッセイを書き始めていた。共倒れになりかねない自分を護るため、無我夢中で書いてきた。妻からの執拗な暴力の中で考えていたことは、悲嘆や怨みつらみではなく、なぜかユーモアばかりだった。書くことで私は現実を受け止め、同時に、現実から逃避していた。

 賞をもらい同人誌に所属し、信じ難いことに、佐藤愛子先生本人から直接作品評をもらえるようになっていた。佐藤先生が同人誌にかかわっていたのだ。考えてもいなかったことが、現実になった。人生はこんなところから光が差してくるものなのか……心から感謝した。

 妻が出てゆく数カ月前、

「ね、怒らないで聞いて欲しいんだけど……」

 いつになく神妙な顔で妻がもちかけてきた。

「石岡さんと一緒になりたいんだけど、どう思う?」

 どう思うって……。石岡は妻の入院仲間で、サラリーマンだったが、すでに休職期限が切れて解雇されていた。妻が抱える闇の深さを、改めて突きつけられた思いがした。

 その後も私は、根気よく妻を説得し続けた。破滅の道は、誰が見ても明らか。半年ももたないよ。誰が食事を作るの。掃除は、洗濯は、買い物はどうする。風呂だって……。何年も前から、妻の入浴の介助は私がやっていた。離婚したら、もうお仕舞いなんだよ、と。

「健康な人にはこの気持ち、わからないわ」

 密かに身の回りの整理をし始めていた妻が、とうとう家を出た。途中で私にバレ、阻止されるのではないか、ずいぶん心配したことだろう。手配したレンタカーに荷物を積み終え、ホッとして車を走らす二人の姿が目に浮かぶ。薬漬けで精彩を欠く二人の、どこにそんな力があったのか。

 私はすでに妻を止める気力を失っていた。見て見ぬふりをしたのだ。あえて脇を弛め、逃げ道を空けた。妻はそこをすり抜けていった。

 二日後。会社に電話があり、呼び出された近くの喫茶店で、離婚届に判を押した。妻は終始、怯えたような目を向けていた。体調を崩すほどの不安な夜を過ごしていたに違いない。目の前で離婚届を破る私を想像し、頓服の精神安定剤を飲んでいただろう。

 私は妻を一切責めなかった。そして、ほとんど何もしゃべらなかった。それが私の唯一の抵抗、不快感の表明だった。

 事務的に作業を終え、「じゃ」と言って立ち上がったとき、なにかもの足りなさを感じた私は、「幸せにな」とうっかり声に出してしまった。妻の目にみるみる涙が浮かぶのが見て取れた。私は振り返えらず、そのまま店を後にした。

 数日後、娘と二人、伊豆の温泉に旅行した。海の見える宿だった。こんな自由を味わっていいのか、鳥籠から放たれたカナリアのようにビクビクしながら過ごした。

 妻との離婚を周りに話すと、誰もが一様に驚き、そして囁いた。「でも、よかったな」と。何があろうと絶対によりを戻しちゃダメだ。お前なら許しかねない、と念を押された。

 よかった、よかったと友達も同僚も、母や妹や親戚みんなが喜んだ。なんだか、結婚したときよりも、大きな祝福をもらったような気がした。(本当は、いいやつだったんだよ)という思いを、胸の奥に押し込んだ。

 私だって、以前の生活には戻りたくない。金輪際ゴメンだ。だが、娘にとって、彼女が母親であることは変わらない。生涯それが続く。そこが気がかりなのだ。

 三カ月後の夜、遅い時間に電話が鳴った。妻からだった。「やっぱり、私たちダメみたい」と。そんな電話が二度あった。いずれも、相談する相手が違うよ、と私は妻に背を向けた。以降、パッタリと音信が途絶えた。

 あれから三年、どうしていることか。私はすでに転勤で東京を離れ、北海道で暮している。だが、遠く離れているからといって、安心はできない。

 「天災は忘れたころにやってくる」とは、明治の物理学者で漱石の門弟でもあった寺田寅彦の言葉である。油断をするな、という戒めだ。私の場合だと、「先妻は忘れたころにやってくる」とでもなろうか。

 怖い言葉である。


                  平成二十五年一月  小 山 次 男


  付記

  平成二十五年五月加筆