Coffee Break Essay
チケット売り場へいくと、アルバイト学生の若者がカウンターに五人ほどズラリと並んでいた。そのうちの一人が男で、どういうわけかこの男が、こちらへどうぞと手を挙げた。このとき周囲には、私しか客がいなかった。思わずつられてその青年の前に進み出てしまった。内心、若い女の子がいっぱいいるのに失敗したと思ったが、後の祭り。 お金を出して、つり銭を待っていると、 「なにか年齢確認ができるものをお持ちですか」 青年が満面の笑顔で訊いてきた。私は反射的にリュックのポケットに手を入れ、免許証を入れてある財布を探した。こんなときに限って、なかなか出てこない。次の瞬間、年齢確認? そんなエッチな映画なのか、という思いが頭を掠(かす)めた。同時に、どんなエッチな映画でも、私には正々堂々と観る資格がある。五十三歳だ。そんなことが頭を駆け巡り、 「年齢確認、いらないでしょう」 というと。 「割引になります」 青年は溌剌(はつらつ)とした笑顔を見せた。そうか、五十も過ぎると割引対象かと少なからずショックを受けたが、それもおかしな話。何歳からかと再び尋ねると、六十歳、シニア割引だという。私は愕然(がくぜん)とし、青年の顔をまじまじと見つめた。青年は愛想がいいのか、能天気なのかわからないが、相変わらずニコニコしている。私は憮然とした顔を作って、 「まだ、しばらく先だな。今度の東京オリンピックまでは大丈夫だ」 というと、青年は驚いた顔で、「そうですよね、まだまだ若いですもンね」と取り繕った。その慌てようは、見ていて気の毒なほどだった。 この映画の主演、渡辺謙と私は同じ年である。私の名は近藤健なので、名前の読みも同じである(同じ「健」でも、高倉健ともなると大違いだが)。一体、どこが違うのだ、そんなことを考えながら映画を観ることになった。過日、飲んだ席で幼馴染の女性に、渡辺謙との違いを尋ねてみると、 「何もかも違うわよ。同じ人間とは思えないわ」 容赦のない一撃を食らった。 実は、一昨年の秋にもショッキングな年齢誤認があった。 そのとき、私は室蘭に住んでいた。週に一度かよっていた古い銭湯で、八十歳を過ぎた番台の婆さんが突然、年齢を訊いてきた。ふだん話をしたことのない婆さんである。それゆえ、どうしたババア、何でオレの年が気になった、と思いつつ年齢を告げると、 「あっらぁ……、若いのねぇ……」 と恥ずかしそうな仕草をして、それで終わった。 婆さん、何でオレの年を訊いてきた、風呂に入っている間中考えたが、とうとう納得のいく答えが見つからなかった。改めて婆さんに訊く気にもなれず、モヤモヤとした気分で銭湯を出た。 外へ出て何気なしに振り返ると、入り口の脇に貼紙があった。入るときに見落としていたものである。そこには、雄渾な字で「本日、六十五歳以上の方、入浴無料」と墨書されていた。敬老の日だった。 若いうちは、年をとって見られても、さほど苦にはならなかった。だが、いくらなんでも六十超えはないだろう。たまったものじゃない。最近、私の見かけの年齢と実年齢との乖離(かいり)が、ますます進行しているように感じる。 私は二十代のころから老けて見られる傾向があった。最近は、頭もずいぶんと薄くなっている。こればかりは、どうにもならない。また、代謝の衰えだろうが、少しでも気を許すと体重が増加する。運動と食事制限で抵抗を試みるが、それにも限界がある。とにかく、チビで、デブで、ハゲで、スケベで、ケチなオヤジにだけはなりたくない、と常日ごろ思っている。 チビとスケベは元来のことなので、どうにもならない。ハゲも止まらない。残るは、デブとケチである。これだけは何とか死守したい。そんなこともあって、服装にも結構、気を遣っている。 最近、「アンチ・エイジング」という言葉をよく耳にするようになった。年齢に対抗しようなど大それたことは望まない。他人から若く見られよう、などといった贅沢なこともいわない。せめて、見た目だけでも、実年齢に近づきたい。年相応でいいのだ。 はたして、そんな日が来るだろうか。 |