Coffee Break Essay
『鶏皮シシトウ』 学生時代、京都でアパート暮らしをした。最初のころは、もっぱら外食をしていたのだが、一年間もそんなことをしていると、学食にも定食屋にもうんざりとなった。“外食の味”にすっかり飽きてしまったのだ。そこでやむなく自炊を始めた。
自炊といっても、私は料理がからっきしダメだった。自分で作れるものは目玉焼きと卵焼き、それに肉を塩胡椒で炒める程度のもの。味噌汁の作り方さえ知らなかった。納豆や玉子かけご飯、ラーメンの残り汁にご飯を入れて食べるなど。つまり、炊飯器でご飯を炊くことが私にとって自炊だった。
あるとき、無性にほうれん草のおひたしが食べたくなった。実家の母に電話してその作り方を聞いたのだが、
「えッ! ほうれん草のおひたし……」と電話口で言った後、その手順を教える母の声が涙声に変わった。息子がひとりアパートでほうれん草を茹でる姿を想像したのだろう。それに懲りて以降、母に調理を訊くのはやめた。
私が自炊するようになってから、ときどき北海道の実家から食材が送られてくる。タラコやイクラの醤油漬け、キリコミ(カレイなどを小さく切って発酵させた保存食)などである。食事はひとりですることもあったが、週に何度かは同じアパートの仲間二、三人で食べていた。私が部屋で食事をしていると、隣室のTが「一緒に食おうや」と部屋に入ってきた。
送られてきたタラコをTに勧めると、
「これ、生やないか。焼かんでもええんか?」
と驚いている。Tは焼いたタラコしか食べたことがないという。
「アホか、こんなもん焼いたら、うまないやろが」
私はタラコをご飯に乗せて美味そうに食べてみせた。Tは納豆すら食べたことがなかったのだ。だが、Tが特別なのではなく、それが関西の“常識”であった。
Tは私と生活を共にしたお陰で、納豆が大好物となり、タラコも生で食べられるようになった。Tは運動部だったこともあり、大食漢である。ラーメンドンブリに納豆二パックと三個の生卵をかけ、そこにタラコとマヨネーズを入れかき混ぜると、ピンク色のグロテスクな料理が出来上がる。Tはそれを美味いと言って食べていた。
二十代前半の若者にとって、肉のない食生活は耐えられない。だが、肉は高い。最も安い豚のバラ肉を買ってきては、塩胡椒で焼いて食べていた。ある時、肉屋で鶏の皮が六百グラム二百円で売っているのを発見した。法外な値段に小躍りし、早速、それを塩胡椒で炒めた。皮からは恐ろしいほどの脂が出る。それをカリカリになるまで炒め、炒め上がった皮を新聞紙に載せて脂を切る。野菜は近所のスーパーで安く手に入るシシトウを、同じく塩胡椒で炒めた。この取り合わせが抜群に美味い。しかも、飽きないのだ。アパートの共同炊事場で調理していると、
「お前、また皮かいな」と覗きにくる連中がいる。
「ええから食うて見いな。ほんまに美味いんやから」と勧めているうちに、周りの連中も鶏皮シシトウの虜(とりこ)になってしまった。それまで肉屋でも大して売れていなかった鶏の皮が、頻繁に売り切れになった。我々が買い占めていたのである。
「あんたら、たまには肉も食べなあかんで」
肉屋のオバちゃんが心配した。五人で一度に二キロもの皮を平らげたこともあった。
こういう食生活を二年ほど続けた結果、それまで太れなくて悩んでいた私の体重が十キロも増えた。喜んだのも束の間、身体のだるい日が続き、とうとう高熱を発した。風邪だと思って病院へ行くと、入院が必要ですという。肝機能障害を起こしてしまったのだ。脂肪肝であった。卒業を目前に控えていたこともあり、何とか通院でやり過ごした。以来、鶏皮シシトウが食べられなくなっていた。
東京で就職し、独身寮生活を経た後、再びひとり暮らしを始めたとき、学生時代のあの鶏皮シシトウが無性に懐かしくなった。近所のスーパーや八百屋を八方捜したが、どうしてもシシトウが見つからない。似たようなものがあるのだが、学生時代に食べていたあのシシトウではなかった。東京のシシトウは大きさも三分の一ほどしかなく、食感もかなり違う。ラベルには「トウガラシ」とある。何故あのシシトウがないのだろうという疑問が、ずっと私の中で燻っていた。
数年前、近所に出来た新しいスーパーに妻と買物に出かけた。その時、偶然にその答えを見つけた。
スーパーの野菜売り場の一角に作られていた京野菜コーナーに、あのシシトウがあったのだ。「伏見唐辛子」とあった。どおりで見当たらないわけだ。学生時代のアパートは伏見にあり、つまり地元の野菜を食べていた訳である。
いい値段で売られていたそのスーパーのシシトウを、無理して大目に買った。近所の肉屋で鶏の皮を求め、夕食に当時の料理を再現した。
「カリカリして美味しいわね。でも身体に悪そう」と妻。「ピーマンと同じジャン」と言って、娘は一瞥しただけだった。十八年ぶりに鶏皮シシトウを口にした瞬間、懐かしい味が広がった。同時に、アパートの仲間と一緒に食べたあのころの光景が、目の前に浮かんだ。
「どぅや、ごっつ美味いやろ」
妻と娘に向かって、思わず関西弁が口をついた。 |