Coffee Break Essay


 『トンネルを駆け抜けていたころ』

 

 朝の通勤電車で、「○○駅付近で人が線路内に立ち入ったため、ただいま安全確認を行っております」というアナウンスをしばしば聞く。過密ダイヤで運行している電車は、どこかでトラブルがあると、全線で運行を停止する。ただでさえ混雑を極める朝のラッシュが、一瞬にして飽和状態となる。東京では、線路を歩くこともままならないのかと、すし詰めの電車のドアに頬を押しつけられながら考えている。

 北海道の太平洋岸を走る日高本線は、海岸と牧場、山間部を縫うように走る単線である。私の故郷は、日高本線の終着駅様似(さまに)で、現在の人口は五千人台の過疎の町である。

 子供のころはよく山で遊んだのだが、線路を歩いて山に入ることが多かった。田舎ゆえ、汽車に出くわすのは一時間に一本くらいなものである。そろそろ汽車が来るのではないかとレールに耳を当てると、かすかに「ゴトン、ゴトーン、ゴトン、ゴトーン」という音が聞こえてくる。かなり遠くを走っている車輪の音が、レールを伝って聞こえてくるのだ。当時は一、二両編成のディゼルカーのほかに、貨物列車(蒸気機関車)が走っていた。

「汽車、来るぞ!」

 といって線路脇の草むらに身を伏せるのである。運転手に見つかったら、学校に通報されるという危惧があった。小学校三年から五年生のころのことであるから、昭和四十年代の前半である。

 レールから落ちないでどこまで走れるか競争したり、足元が透けて見える鉄橋を、肝試しのようなスリルで渡ったものだ。なかでもトンネル抜けは、最も怖いものだった。

 二、三百メートルほどのトンネルであるが、トンネルを出た先が大きなカーブになっており、汽車が近づいているかどうかの確認ができない。レールの音と前回汽車が通過してからどのくらいの時間が経っているか、といった勘に頼って走り抜けるしかなかった。それは少年にとってかなりスリリングな度胸試しであった。

 トンネルを走り抜けなければ、一人前の男ではないという思いがあった。何度もトンネル抜けをしているが、ここを走り抜けることがひとつの試練で、その先に未知の世界があるような錯覚を覚えていた。

 トンネルの入り口に立つと、暗闇の中からひんやりとした冷気が流れてくる。汗がスーッと引いて行く。陽に照らされて銀色に輝く二本のレールが、まっすぐ闇の中に消えている。

「どうする……」

「行くか」

「……」

 後ろからの汽車の気配はない。レールに耳を当て、暗闇のかなたに光る出口の小さなアーチに眼を凝らす。もう一度、耳を澄ます。

「よし、行くぞ!」

 出口の明かりを目指して全力で走り出す。トンネル内は貨物列車の煤で真っ黒である。漆黒の闇の中を、ひたすら明かりに向かって走る。トンネルの中間地点が近づくと、もう引き返すことはできない。途中、トンネルの側面に小さな窪みがある。保線員用の待避所であるが、貨物列車が来たら煙と蒸気で一巻の終わりである。恐怖が全身を突き抜ける。全員でワーッと叫び声を上げ、枕木につまずきながら必死で走る。一分にも満たない距離がとてつもなく長く感じられる。走っても走っても、出口が近づいてこない。

 トンネルの上部からは、ポタポタと水が滴り落ちており、煤の臭いが鼻を突く。ねっとりと肌にまとわりつくような暗闇が恐怖を煽(あお)る。次第に出口のアーチが大きくなってきて、眩い外の光の中に躍り出る。

 陽の当たる線路の上に転がって、肩で息をする。怖さを乗り超えた安堵感から、誰からともなく笑いがあふれ出す。そんなときに限って、近づいてくる貨物列車のけたたましい汽笛に驚かされる。

 このトンネルの走り抜けは、片道だけの一度きりで、往復の走り抜けは誰もしなかった。怖かったのだ。山で遊んだ後は、トンネルの山を越えて家に帰った。少しだけ大人になったような誇らしい気分になっていた。

 線路脇にはよく白銀色のマンガンや豆炭が落ちていた。無蓋貨車から落ちたものだろうが、そんなものを集めるのも楽しみであった。

 肋骨を圧迫されるような東京の朝の満員電車の中で、そんな昔の光景を思い出している。

 

               平成二十一年一月 小寒  小 山 次 男