Coffee Break Essay


この作品は、「室蘭文藝」48号(20153月発行)に掲載されております。

   
  『床屋のおしゃべり』


 床屋は好きな方である。シャリッ、シャリッと髪の毛が切り落とされてゆく。疲れまで落ちて行くようで心地が良い。できることなら、三週間に一度くらいは行きたいものだ。しかし、饒舌な床屋が大の苦手なのである。

 むこうは、サービス精神を発揮して、気を遣ってくれているのだろうが、それが苦痛でたまらない。

「せっかくの休みなのに、こうも雨が続くと困りますよね。家でゴロゴロしてるとカミさんに邪魔者あつかいされるし、やることなくて結局、パチンコしちゃうんですよね」

「お子さんいらっしゃるんですか。――そうですか、一番可愛い盛りだ。うちの娘なんか、親の言うこと全然、きかなくってね、この間なんか……」

「……今日は、これからどこかへお出かけでもするんですか」

 この手の会話が苦手中の苦手なのである。もう止めてくれと叫びたくなるのだ。だから、できるだけ話の穂を折るように努め、途切れたところで、これ幸いと目をつぶって寝たふりをする。そろそろ終わりかなと目を開けると、

「ずいぶんとお疲れのようですね」

 トドメを刺されて、二度とその店には行かなくなるのだ。

 まわり近所に、そうたくさん床屋があるわけはない。そのうちに行くところがなくなった。そこで妻がいつも行っている美容院に行くことになった。あらかじめ私に話しかけないように店のひとに手回ししてもらった。私もかなり重症である。

 美容院では、床屋のような爽快感が味わえない。熱いタオルを顔に当ててはくれないし、顔も剃ってくれない。オバさんやオネエさんがたくさんいて、シャンプー台から頭にタオルをまかれて席に戻るのは、何とも恥ずかしい。それでも我慢して行っていたが、そのうちにスタッフが入れ替わって、ピンク色の頭の店員が話しかけてきたので、それっきり止めてしまった。

 どうしてこうなのか、自分でもよく分からない。どうも床屋だけがダメなのだ。

 そもそも床屋や美容院では、布を巻かれてこちらは身動きできない状態にあり、完全に押さえ込まれている。身振り手振りができず、口だけで話さなければならなく、しかも知らない客がズラリと並んでいる。嫌が応にも話が聞こえる。どうせみんなに同じこと訊いて、右から左へ聞き流しているんだろう、という思いがある。だから嫌なのだ。

 関西で生活し、一番驚いたのは、見知らぬ人から話しかけられることがとても多いということだった。電車の中でスポーツ新聞を読んでいたオッサンが「掛布はええなァー」とくる。「にいちゃん、どこ悪いねん。摂生せなァかんで」と病院の待合室。「このA定食、食わへん方がええで、まァーずい、まずい」と学食、といった調子で頻繁に話しかけられる。

 元来、関西弁は、コミュニケーションをはかるのに適した言葉である。関東以北だと見知らぬ相手のことを「あたな」とか「きみ」というふうにかしこまって呼ぶしかないが、関西だと「じぶん」で済む。これは使い勝手のいい言葉で、「自分、出身、北海道やろ」という具合だ。ただし、同等または、目下の相手にしか使えない。それでも関西弁特有の柔らかい語尾と半音高いアクセントが、会話のイントロをスムーズにする。関西の住み良さは、この気安さにある。

 話しを床屋に戻す。床屋では、忘れ難い思い出がある。

 仕事でひどく忙しい日が続いていた。ハッ! と気がつくと結婚式の前日である。どうしても今日中に床屋へ行かなければマズい。そう思い慌てて会社を飛び出した。すでに午後八時を回っていたので渋谷で下車。とにかく走った。道玄坂を上ったあたりのビルに床屋を見かけた記憶があったのだ。

 確かに店はあった。だが、閉まっていた。万事休すと思った時、暗い店の中に人の気配を感じた。必死だった私は、扉をドンドンたたいていた。何事かと出てきたオヤジに「あした結婚式なんです。お願いできないですか」と叫ぶように懇請していた。

 嫌な顔をされるかと思ったが、無言で入れというしぐさである。肩で息をしながら、汗をふきふき礼を言ってイスに座った。オヤジは黙ってシャリシャリとやりだした。すっかり恐縮している私に、終始無言が続く。薄気味悪くなり、このときばかりは話しかけてくれると助かるのになあと思った。

 帰り際、私の背中にブラシをかけながら、

「結婚は、人生の一大事だからな。これからいろいろあるが、とにかく頑張ることだ」

 と肩を押された。ご祝儀だからといって、お金を受け取ってくれなかった。

 結婚式が終わり一段落したところで、その床屋を探したが、どうしても見つからない。あいまいな記憶ながら確かこのビルではなかったか、と思う一角を探し当てた。だがそこは別の店になっていた。廃業したのか、どこかへ移転してしまったのだろうか。ブティックに変ってしまったその店の店員に尋ねてみたのだが、分からないという。

 私は仕方なく黙礼して、そのビルを後にした。おしい床屋を失ってしまった。

    
                    平成十五年三月  小 山 次 男


                          平成二十六年九月 加筆