Coffee Break Essay




 
 「解き放たれて」


 妻と別れた。

 それから数日間、夢の中を浮遊している心地がした。一気にGの束縛から解き放たれ、無重力の中に投げ出されたような、そんな感覚だった。

 平成二十二年三月三十一日、妻が練馬の自宅を出た。会社から帰ると、食卓テーブルの隅に小さな付箋が貼られていた。そこには、妻の丸い字で「後日、連絡します」とあった。それだけだった。

 二日後、仕事中に会社近くの喫茶店に呼び出され、離婚届に判を押した。こんなに簡単でいいのか、という思いがあった。四月五日、離婚届けが受理された旨の通知が役所から届いた。あと四日で結婚二十一周年だった。

 確信が欲しかった私は、本籍地から戸籍謄本を取り寄せた。妻欄の上部左右の隅からそれぞれ対角線上に引かれた線が中央で交差し、妻の名前が消し込まれていた。「バツイチ」とはこういうことなのだと、改めて思った。そしてそれが自分の身に起こったことに、怖さを覚えた。妻、四十一歳、私は五十歳だった。

 二週間後、身の置き場のない感情を紛らすため、大学二年になったばかりのひとり娘を伴って、伊豆の下田温泉に旅行した。解放感を満喫しようと思ったのだ。しかし、鳥籠から放たれたカナリヤのように、戸惑いの中でビクビクしていた。こんなに自由でいいのか、という思いが後ろめたさとなって、すっぽりと私に覆いかぶさっていた。

 あれから五年が過ぎた。北海道に来てから四年になる。妻はまだ、生き長らえているのだろうか……。

 平成九年十二月、妻は精神疾患を発病した。境界例の人格障害に重篤なうつ病を伴っていた。その後、十二年半の闘病生活の間に、七回の自殺未遂と入退院を繰り返した。そして最後に、同じ病を共有する入院仲間の男性のもとへ走った。誰が考えても、自滅行為である。

 発病から数年間は、耐えがたい暴力の日々だった。

「女がいるんだろ。白状しろ」

 そう言って、何度も包丁を突き付けられた。後に医師から「嫉妬妄想です」と言われた。この症状は最終的には薬で抑え込まれるのだが、忘れたころに顔を出し、私を戦慄させた。

 妻の感情の起伏に心身ともに疲れ果てていた。幼い娘から母親を奪いたくない、ただその一点だけで家庭を支えていた。「今が人生の試練のとき、耐えろ!」、「これが人生の修行、お前は修行僧だ」、「止まない雨はない」、「暗闇の彼方に光る一点を今駅舎の灯と信じつつ行く」など、あらゆる言葉を総動員し、力ずくで自分に言い聞かせた。

 平成二十年八月、北海道で一人暮らす母が脳梗塞になった。それまで九年間、母に会うことが許されなかった。「ついでに女と会うんでしょ」と。母も我が家の事情を理解し、ひたすら耐えていた。そんながんじがらめから解放されたのだ。誰もが安堵の安らぎに浸った。

 妻が出て行く半年ほど前から、私は会社からの要請で宅地建物取引主任(現在の宅建士)の免許取得のために、独学で勉強を始めた。試験は年に一度、十月の第三日曜日に行われる。勉強を開始して一週間目、親友の良二の訃報が舞い込んだ。長野県の山中で練炭自殺を図ったのだ。良二も数年前からうつ病を患い、毎晩のように私とメールのやり取りをしていた。だが、将来を悲観して、妻と三人の女の子を残し、黙って逝ってしまった。良二の場合、症状が軽く、もう薬はいらないでしょうと医師から言われていた。それで私も油断したのだ。

 私には良二の自死を食い止められなかった、という強い自責の念があった。それを振り切るようにして勉強を再開した。そして妻が出て行った。私はなおいっそう、一心不乱に勉強に打ち込んだ。受験勉強に身を置くことにより、現実から逃げた。土曜日は、終日国会図書館にいた。日曜日は、国会図書館が休みなので、近所の区立図書館や何往復もしながら、電車の中で勉強した。電車の中での勉強は、妙に効率が良かった。疲れたら眠り、時に途中下車して喫茶店でコーヒーを飲んだ。

 だが、残念なことに、平成二十二年十月の試験は、不合格になってしまった。宅建の試験は、五〇問を一二〇分で解くのだが、この年は、三十六問の正解が合格ラインだった。私は三十二問の正解だった。受験者の一五パーセントしか合格させてもらえない。

 五十歳を目前にして開始した試験勉強である。独学での合格は難しいとのささやきも耳にしていた。ザルで水を掬うように、いくら覚えても、記憶は右から左に通り抜けていく。だが、ここで止めるわけにはいかない。もう一年だけ頑張ってみようと、気を取り直して再び勉強を再開した。読書はおろか、エッセイを書くのもすべて中止した。

 年を越した平成二十三年三月、私は室蘭市に転勤になった。家財道具のほとんどを捨てて東京を後にした。大学三年になっていた娘には、東京でアパートをあてがった。室蘭に着任して十一日目、東日本大震災に見舞われた。幸い、室蘭は一メートルの津波が押し寄せただけで終わった。

 室蘭では、マンションの目の前に市立図書館があった。月に一度、札幌にいる母のもとを訪ねていた。母は田舎を引き払って妹と共に暮らしていた。それ以外の休日は、まるまる図書館で過ごした。私は無我夢中で勉強に打ち込んだ。だが、歳のせいかすぐに眠くなる。勉強は、眠気との闘いでもあった。

 二度目の宅建の試験を目前にし、米良家の歴史の本の出版の話が持ち上がった。それまで私は母方の祖先である米良家の調査結果を、長大な文章にしていた。米良家は熊本藩士で、元禄赤穂事件にかかわっており、それも相まってそんな話が出てきたのだ。もちろん、私の調査を全面的にバックアップしてくれていた赤穂義士研究家の佐藤誠氏の力によるものである。私は出版社にお願いし、試験が終わるまで、その話を保留にしてもらった。

 精神のバランスを崩すのではないか、と思うほど勉強に没頭した。こんなに勉強したのは大学受験以来である。結果、宅建の試験に合格できた。これで落ちたら、それまでの二年間が徒労に終わる、そんな強迫観念にも駆られていた。その後、登録実務講習とそれに関わる更なる試験があり、宅建の免状を最終的に手にするのは、翌平成二十四年三月になってからである。

 私は、宅建の本試験が終わった平成二十三年十月から、先に話が合った米良家の本の執筆にとりかかった。本編に当たる歴史編を私が、史料編を佐藤氏が担当する共著の形をとった。出版社は福岡だったので、ゲラが福岡から私のいる室蘭へ、そして東京の佐藤氏を経てまた福岡に戻されるというサイクルが延々と繰り返えされた。

 そんななか、平成二十五年三月、私はふたたび異動になった。今度は札幌である。母のこともあり、当初から札幌への転勤希望を出していた。室蘭での二年間は、宅建の勉強と本の執筆に明け暮れた。休日のほとんどを図書館で過ごした。よけいな感傷に惑わされずに生活できたことはよかった。

 それまで各章ごとに断片的に送られて来ていたゲラが、札幌に異動になる半年ほど前から全体像で届くようになった。かなりの分量である。元号・西暦並記の問題、新漢字と旧漢字、数詞の処理、最後は「欠字(闕字)(けつじ)」、「平出(へいしゅつ)」の問題に直面した。欠字とは「文章中に、天皇・貴人の名などを書く時、敬意を表すため、そのすぐ上を一字か二字分あけて書くこと」。平出は、「文中に高貴な人の名や称号を書く時、敬意を表すため、行を改めて前の行と同じ高さにその文字を書くこと」(いずれも『広辞苑』)である。それを史料編の中でどう表現するか、そんなことを一つ一つ丹念にクリアーしていった。誤字脱字の正誤表を決して入れないという覚悟で、執念の校正を心がけた。

 校正作業は一年三ヵ月に及んだ。かくして平成二十五年六月、三四六ページにわたる『肥後藩参百石 米良家』が発刊を見た。その後しばらく献本などの作業に追われ、すっかり落ち着いたのは、この年の夏である。

 平成二十一年九月から宅建の勉強を始め、続く本の執筆と併せて、平成二十五年の夏まで、おおよそ四年の歳月を経たことになる。私は妻から解き放たれた自由を、このような形で爆発的に謳歌した。十二年半の闘病生活の反動がなせる業であった。

 妻と別れて五年が経った。娘も結婚してこの四月下旬に長野へ行った。七月には子が生まれる。米良家の歴史を書き上げて以降、何かと忙しさはあるものの、熱中する大きな目標を失った。次の目標を見定めるべきなのだろうが、体力はもちろんのこと、気力の萎(な)えを感じている。燃え尽き感が否めないのだ。

 これじゃいかんとは思いながら、ジワリと浸食してくる寂寥(せきりょう)感を止められずにいる。私にはまだやらねばならないことが山ほどある。わかってはいるのだが、それが思うようにできない。そんなもどかしさの中で、時間だけが流れていく。私は岸辺に佇んで、その時間の流れをじっと眺めている。そろそろ立ち上がらねば。


               平成二十七年五月  小 山 次 男