Coffee Break Essay




  『父の年忌法要』




  父は、昭和五十八年六月に、五十一歳で亡くなった。肝硬変だった。酒もそれほど飲まなかった父だが、人一倍神経が細やかで、無類の病院嫌いだった。そんなことが災いした。

 今年、父の三十三回忌法要を終えた。法要は、母と妹の三人だけで行った。妹は独身で、私も五年前に妻と別れている。私の娘はこの五月に結婚し、東京から長野へ移った。

 年忌法要というのは、亡くなった翌年が一周忌で、その次の年が三回忌となる。何で「一」の次が「三」なのかと思ってきたが、「これから三年目を迎える」という意味だという。納得できるような、できないような、ただ「ふーん」というしかない。以降の年数のカウントも、すべてこれに倣(なら)う。六年目を迎えたら七回忌、次が十三、そして十七、二十三、二十七、三十三と続く。二十三と二十七がなく、二十五の地域もある。

 一般的には三十三回忌法要をもって年忌止めとし、弔い上げ(弔い納め)となる。弔い上げを行った後も、五十回忌と百回忌は特別に行うという。だが、そんなことがこの現代で可能だとは到底思えない。とにかく、三十三回忌を終え、これで年忌法要も一段落と、ホッとした。

 当時、四十八歳だった母は、今年八十歳になった。二十三歳の私は五十五に、妹は五十三歳である。それぞれに歳を重ねた。父が亡くなる年の三月に、私は大学を卒業し、東京の会社に勤めている。

 一周忌法要は、当然、地元様似(さまに)で行った。東京から向った私は千歳空港で札幌から来た叔母らと合流し、私の運転で様似を目指した。叔母との話に花が咲いた結果、スピード違反で警察に捕まった。

「けっこうスピード、出ていたようですが、お急ぎでしたか」

 と訊かれ、咄嗟に「父が危篤なんです」と言おうとして、叔母たちの喪服姿が目に入った。危篤で喪服もないだろうと思い直し、

「父の一周忌があるもんで」

 と正直に答えた。

「お若いのに、お気の毒です」

 といわれ、違反の切符を切られた。

 法事は、お寺の本堂で行った。親戚とごく近しい人だけに来てもらった。だが、親戚だけでも五十人近くはいたと思う。父は七人、母も二人欠けるが七人兄弟である。様似は母方の本拠地で、遠戚が大挙して集まった。法要では、長男である私が挨拶することになっていた。

 私は参列者の最前列で、しっかりと背筋を伸ばし正座していた。住職の読経が終わり、いよいよ挨拶ということになった。私は座布団から立ち上がりざま、参列者の方に向き直ろうとして、そのままバッタリと倒れてしまった。柔道の受け身さながらに、万歳をした形で、両手で畳を叩いた。もの凄い音だった。立ち上がったとき、足首が正座のままの形に伸び切り、戻っていなかったのだ。足がしびれていて感覚をなくし、それにすら気づいていなかった。本堂が大きな笑いの渦に包まれた。結局、私は立つことができず、挨拶は母が行った。

 三回忌法要(昭和六十年)は、私が倒れた一周忌の話で大いに盛り上がった。

 七回忌は、平成元年にあたり、この年の四月に結婚した妻をお披露目する場となった。このころの参列者は、地元の近しい親類が主流になっていた。この年の十月に娘が生まれている。

 二十三回忌(平成十七年)は、断腸の思いで欠席した。平成九年から精神疾患に陥っていた妻の妄想がひどく、法要に参加できる状況ではなかった。結局、妻とは平成二十二年に別れている。

 二十七回忌(平成二十一年)からは札幌で法要を行っている。平成二十年八月に母が脳梗塞を発症し、以来、母は札幌で妹と暮らしている。平成二十一年七月には、様似の実家を処分した。二十七回忌法要を近隣のお寺に頼もうと思ったが、「様似にお墓がある間は、法要に参ります」と言われた。様似・札幌間は、片道一九〇キロの道程である。どんどん檀家が減少していくご時世、出張法要が当たり前なのだ。新規顧客が望めない以上、既存顧客をどこまでも追いかける。寺も必死だ。

 桜が好きだった父を思い、母はサクラ材で作られた仏壇を購入していた。実家をたたむ際に、そんなもの一切合財を処分してきた。マンションの小さな仏壇にには最初、線香やロウソクもあったのだが、火が危ないという理由で、数年前に電気式のものに取り換えた。線香やロウソクは、頭を押すと小さな電気が灯る。しかもリンも含めてすべて百円ショップで購入していた。いかにも安物なのだが、二人とも頓着がなかったので、私もそれで良しとしていた。

 今回の法要では、線香だけは本物でとお寺からいわれ、ロウソクと線香を本物に変えた。

 百キロ超級の体格のいい若坊さんが法要にやって来た。かつて父の法要を執り行っていた住職は、数年前に一〇一歳で亡くなったと聞いた。若坊さんはその孫である。時の流れを感じた。

 マンションの一室で、本堂張りの大音声(だいおんじょう)の読経が始まった。隣のことが気になって仕方がなかった。読経の間、百均のリンが二度ほど派手に吹っ飛んだ。リン棒で叩く坊さんの力が強かったのではない。リンが軽すぎたのだ。坊さんも慌てた。

 帰り際、

「四年後の三十七回忌にまた参ります。どうぞお元気で」

 と言って、若坊さんは揚々と帰って行った。調べてみると、曹洞宗は、三十三回忌以降五十回忌までの間に、三十七、四十三、四十七回忌があるようだ。母の方を向くと、もういいだろうという顔をしていた。妹も頷(うなづ)いた。

 もし私が七十二歳になっても生きていたら、父の五十回忌法要をしようと思う。はなはだ自信はないのだが。

   
                平成二十七年七月  小 山 次 男