Coffee Break Essay




 テレサ



 まだ土曜日が半ドンだったころの話である。それは私が二十五歳くらいのことだから、一九八五年前後ということになる。

 そのころの私は、仕事が終わってから都内の一流ホテルの喫茶ラウンジで、コーヒーを飲みながらよく読書をしていた。帝国ホテル、ホテルオークラ、赤坂プリンス、パレスホテル……田舎者の私にとって、それがひとつのマイブームとなっていた。

 そんなある日、ホテルニューオータニでのことだった。私は四人掛けのソファー席で、いつものように本を読んでいた。しばらくすると、

「相席させてもらってもよろしいでしょうか」

 というスーツ姿の男性から声をかけられた。相手はとても恐縮している様子だった。私は本から顔を上げ、快く頷き、そのまままた本に目を落とした。

 男性二人が私の向かいに、連れの女性が私の横の席に座る気配がした。男性が三人連れであることに、そのとき初めて気がついた。広い喫茶室であったが、満席だったのだ。私は夢中になって小説を読みふけっていた。何を読んでいたのかは覚えていない。

 三人は私に気を遣いながら、テーブルの上に書類を広げ、何やら打ち合わせを始めた。顔を突き合わせるように、コソコソとしゃべっている。しばらくすると、それがレコードジャケットの打ち合わせであることがわかった。同時に、向かいの男性が発した「テレサ」という言葉が耳に残った。

 その「テレサ」をもう一度耳にしたとき、それが私の隣りの女性に向かって発せられた言葉であることに気がついた。私はそっと本から目を離し、隣の女性をチラリと見て、心臓が止まった。その横顔は、まぎれもなく、あのテレサ・テンだったのだ。

 私はサッと荷物をまとめ、「失礼しました」と一礼をして、席を立った。そんな私に、

「ゴメなさい」

 と言って投げかけてきた彼女の笑顔は、今も私の中に残っている。

 あの打ち合わせは、彼女のどの曲のレコードジャケットだったのだろうか。そのころの彼女のレコードの発売を調べてみると、次のようになっていた。

 八四年「つぐない」、八五年「愛人」、八六年「時の流れに身をまかせ」……この三曲だけで五〇〇万枚を売り上げ、メジャーな音楽賞を総なめにし、紅白の連続出場を果たしている。さらに八六年には、米タイムス紙による世界七大女性歌手の一人に選ばれていた。

 発売時期からすると、「愛人」か「時の流れに……」が怪しいのだが、今となってはなんとも言えない。恐らく超多忙な彼女のスケジュールの間隙(かんげき)を縫って行われた、打ち合わせの一つだったのだろう。

 九五年、彼女は静養先のタイのホテルで、気管支炎喘息の発作が原因で亡くなっている。四十二歳という若さだった。彼女と同席したのは、亡くなる十年前ということになる。

                     令和元年五月 小 山 次 男