Coffee Break Essay

この作品は、室蘭民報(2013年4月6日)夕刊「四季風彩」欄に掲載されました。
 

  他生の縁―赤穂義士切腹の座にて


 東京出張の帰り道。飛行機の時間があったので、高輪の泉岳寺に立ち寄ってみた。昨年十月のことである。

 泉岳寺は、元禄赤穂事件ゆかりの寺である。赤穂藩主浅野内匠頭(たくみのかみ)と四十七士の墓がある。

 義士の墓に線香を手向けた後、泉岳寺裏手にある細川家下屋敷跡まで足を伸ばしてみた。ここは都の史跡「大石良雄外十六人忠烈の跡」で、義士切腹の座が残されている。

 元禄十五年、吉良邸に討ち入り本懐を遂げた義士たちは、大名四家に分散して御預けになり、その後切腹を命ぜられている。現存する切腹の座は、この熊本藩細川邸跡だけである。松平邸はイタリア大使館に、毛利邸に至っては六本木ヒルズに変貌している。

 切腹の座は周囲に塀が廻らされ、立ち入ることはできない。正面の門扉の隙間から、かろうじて中の様子が窺(うかが)える。切腹の座には、目印として大きな平石が置かれている。

 四十七士の美談は、もはや遠い昔の話となった。毎年十二月十四日の討入りが近づいても、軽快なクリスマスソングときらびやかなイルミネーションが街に溢れ、忠臣蔵の話題はすっかり影をひそめてしまった。

 私が訪ねたときも切腹の座は閑散としていた。帰り際、八十代と思しき小柄なお婆さんと入れ違いになった。振り返ると、お婆さんが門扉の隙間から熱心に中を覗き込んでいた。

 その後、私はかつて細川邸にあったといわれるシイの老木を見にいった。樹齢三百年というから、義士切腹当時、すでに存在していた可能性がある。星霜を経、満身創痍(まんしんそうい)ながら、一種独特の妖気を放つ巨木である。

 シイの樹形に圧倒されながら見入っていると、いつの間にか先ほどのお婆さんが私の傍(かたわ)らに立っていた。じっと巨木を眺めている。

「このあたり、どこまでが細川さんのお屋敷だったんでしょうね」

 遠くを見るような目で呟(つぶや)いた。品のいいお婆さんである。お婆さんは以前この近所にいて、杉並に越してからもここの歯医者まで来ているという。私もかつて杉並にいたことがあり、話がかみ合った。このお婆さん、なかなか忠臣蔵に詳しい。

「殿様は赤穂の浪士一人に対し、一人の介錯人をあてがったと聞いております」

 曾祖母の代まで細川家に仕えていたという。私の母方も、と思わず身を乗り出した。話のなりゆきで、私の先祖が、あの切腹の座で堀部弥兵衛の介錯をしていることを明かした。

 お婆さんの驚きようは尋常ではなかった。両手を胸に当て、目を見開いて私を見上げている。卒倒するのではないか、と心配になるほどだった。

 しばらく立ち話をした後、お婆さんは、「今日はよかった」と何度も繰り返し、立ち去っていった。笑顔の中に涙が光っていた。

 お婆さんの背が次第に小さくなっていく。もう二度と会うことのない人である。どこかの時代で、特別なご縁のあった人ではないか。そんな思いが頭を掠(かす)めた瞬間、懐かしさに似た感情が胸に満ち、不意に涙がこみ上げた。


             平成二十五年四月 穀雨  小 山 次 男