Coffee Break Essay
「宅建への挑戦」 小金井市、川崎市、杉並区、練馬区と移り住んだ東京での二十八年間、一日の通勤に費やしていた時間は、往復で二時間から三時間だった。それが私にとっては貴重な読書の時間でもあった。この長期間にわたる読書の積み重ねが、今の私を作り上げたといっても過言ではない。宅建の勉強を始めてからは、それが勉強時間に変わっていた。室蘭に来て、その時間を失った。通勤がない分、落ち着いて自宅で勉強できるだろうと思ったが、そう単純なものではなかった。 帰宅すると眠くて仕方がない。十二年間の仕事のブランクは、五十歳を過ぎて取り戻せるものではなかった。決定的に困ったことは、その場その場での適切な「判断」ができなくなっていたことである。これは致命的なことだった。最初は、周りも仕方がないことと大目に見てくれていたのだが、それが数カ月も経つとそうも行かなくなる。私の睡眠障害はますます威力を増し、日常生活にも支障をきたし始めていた。 そんな仕事のストレスを、勉強に没頭することで紛らわそうとしていた。土日はもっぱら図書館で過ごした。疲れたら街中を方々歩き回る。室蘭は噴火湾に小指を差し入れたような形をしている。旧市街は絵鞆(えとも)半島の中ほどにあった。一方は漁港であり、もう一方は工業港、一番近い海は断崖を降りた小さな砂浜だった。私はこの電信浜と呼ばれる浜が気に入っていた。図書館に飽きた時は、この砂浜で海風に吹かれながら日没まで勉強した。海の気配が身近にある、それが何より気分転換になった。 パチンコもしない。マージャンもゴルフも競馬もやらない。春の山菜採りや夏場の魚釣り、秋のキノコ採りにも参加しない、こいつは一体何を楽みに人生を生きているんだ、大方の目はそう訴えていた。私は三週間に一度のペースで札幌の母と妹のもとへ顔を出した。それ以外の週末は、ただひたすら過去問を解き続けていた。 なかなか来ない春を待ち、やっと桜が咲いたのはゴールデンウィークが始まってからである。だが、七月になっても一向に夏は来なかった。八月に入って二週間ほど暖かい日があった。三十度に達した日が二日あったのだ。三十度を超えるのは珍しいという。それが夏だった。 お盆を過ぎると街路樹のナナカマドの実が赤く染まり、秋の気配が漂い始めた。三十度を超える真夏日が二カ月続くのも難儀だが、夏がないのももの足りない。ここは、「猛暑日」や「熱帯夜」という言葉とは無縁の地だった。 時間はあるのに効率の悪い勉強を強いられていた。睡眠障害の影響で一日中眠い。集中力が持続しないのだ。試験が近づいてきても、去年の受験前のレベルに到達しないのだ。勉強に対し、身体が拒絶反応を示しつつあった。 そんな中、しばらくメールのやり取りをしていなかった宅建コンパニオンから、御守が届いた。試験が近づいたら贈るという約束をちゃんと覚えていたのだ。東京の会社の同僚からは、湯島天神の御守りも届いた。 「やはりダメでした。やるだけのことはやったのですが……」 「残念ですが、もはやこれまで」 そんな言い訳ばかり考えていた。神を信じる気にもなれなかった。平成二十三年十月十六日、私は二回目の宅建の試験を札幌で迎えた。 (つづく) |