Coffee Break Essay


 「宅建への挑戦」

 (七)

 三十代中ごろかと思われるコンパニオンは、心もちやつれたような雰囲気をかもし出していた。話を聞くと、宅建の試験が終わって、今日が仕事再開の初日だという。同じ日に試験を受けていたのだ。しかも彼女、三十九点で軽々と合格ラインを超えていた。それまで意気消沈し、ドロンとしていた私の目玉が飛び出した。

 彼女はシングルマザーで、小学校低学年の男の子がいた。昼間は不動産屋に勤め、夜はコンパニオンをしているという。その不動産屋の唯一の有資格者が退職することになり、彼女に白羽の矢が立った。

 宅建業界は、従業員の五人に一人が有資格者でなければならない。彼女は何が何でも一発合格という使命を背負わされた。それは会社からの要請であり、また、彼女自身の生活の安定を手に入れる好機でもあった。試験の数カ月前からは、会社の経費で専門学校の講座を受講していた。

「もう、死に物狂い。髪の毛を振り乱してなりふり構わず勉強したんです」

 彼女の頑張りとプレッシャーは、幼い子にも伝わっていた。試験の数日前、いつになく元気のない息子の額に手を当てると、高熱を発していた。

「ママも頑張ってるから。……もう少しで終わるんだよね、勉強」

 健気な息子の言葉に胸がつぶれたと、宴席のコンパニオンが涙ぐんだ。彼女自身も精神のバランスを崩しかけ、後半は安定剤を処方してもらっていたという。

 私たちは、水を得た魚のごとく、「こんな話、今まで誰にもできなかった」、「誰もわかってくれないよな、この苦労」、そんな言葉を何度も繰り返しながら、初めて語り合える仲間を見出した喜びに手を取り合っていた。私はもはや宴会どころではなく、彼女も半ば仕事を忘れていた。かくして二時間の宴会は、一瞬にして終わった。

 数日後、会社のホームページを通じ、彼女からメールが届いた。それが彼女との交流の始まりだった。私はカレンダーの十月二十五日の欄に「三五六」という数字を記入した。翌年の宅建の試験に向けてのカウントダウンが再始動した。

「息子がサッカーを頑張っています」、「宅建の合格通知、今日届きました」、「社長にお祝いの食事会をしてもらいました」、そんなメールが時折届いた。私は密かに彼女のことを「宅建コンパニオン」と呼ぶようになっていた。

 結局、十一月下旬に発表された宅建の合格点は三十六点だった。私は四点足りなかった。

 年が明けて一月、私は北海道室蘭市への転勤の内示を受けた。妻の枷(かせ)がはずれ、十二年半におよぶ闘病生活から解放された。だが同時に、今度は母と妹の病気が私に覆いかぶさってきた。毎晩、妹に電話し、妹の喘(あえ)ぐ声に居ても立ってもいられず、会社に転勤希望を出していた。嫌も応もない。そうせざるを得なかった。

 まず娘のアパートを探さなければならない。娘は大学三年だった。

 娘と二人訪ねた不動産の若い女性が、いくつか候補に挙げたアパートを案内してくれた。二十代後半の、テキパキとした女性だった。車中、宅建の話になり、

「試験直前、私、精神的にヤバくなってました。ほとんど寝てませんでしたから、最後は」

 三年前に試験を受けたという。彼女は四カ月ほどの試験勉強で合格していた。若さの瞬発力を見せつけられた思いだった。

 娘を引っ越させた後、家財道具のほとんどを処分し、私は新天地へ向かった。平成二十三年二月二十八日、私は凍てついた夜の室蘭に降り立った。想像以上の寒さに、身震いした。ザクザクと、かりんとを踏み潰して歩くような雪の音と、その不思議な感触を靴底に感じながら、数時間前の池袋の雑踏が、遠い昔の夢のように思えていた。

 私は大学時代から北海道を離れていたので、三十二年ぶりに戻ったことになる。戻ったといっても、年月の隔たりはあまりにも大きかった。途中、九年間、まったく北海道に踏み入れていない期間もあった。室蘭はふるさとに近い土地だが、懐かしいという感情はなかった。見知らぬ土地で十二年ぶりに親会社の仕事に復帰する、その不安の方がはるかに勝っていた。 (つづく)

               平成二十四年二月立春  小 山 次 男