Coffee Break Essay


 「宅建への挑戦」

 (六)

 平成二十二年十月十六日、カレンダーに記したカウントダウンの数字がゼロになり、試験当日を迎えた。駅から大学までの数百メートルの歩道は、受験生の長い行列が出来ていた。こんなにも受験するのかと、その数に慄(おのの)いた。

 試験開始の三十分前に着席し、試験官による説明を受けた。大学受験を髣髴(ほうふつ)とさせた。緊張が走る。試験時間は一二〇分。一問に要する時間は二分二十四秒。受験者の上位一五パーセントが合格ラインだ。例年、五十問中三十三点から三十五点が合格最低点となっている。問題の難易によって三十二点の年もあれば、三十六点のこともあった。過去三十年間での最高点は三十六点なので、それをクリアーできれば合格と各専門学校は分析していた。

 やるだけのことはやってきた。とにかく引っかけ問題にさえ引っかからなければ、何とかなる。だが、この引っかけが難物で、気を抜くと引っかかり、抜かなくても引っかかっていた。宅建は、落とすための試験だった。

 絶対に受かってやると臨んだ試験であるが、開始早々、てこずり始めた。最初の十四問が民法なのだが、予想以上に難しい。三十分で民法を終わらせる予定が、かなり時間を超過した。超過していることはわかっていたのだが、確実に正解を得たかったので、あえて時間をかけた。前半の遅れは後半で取り戻せる、それまでの過去問からそう判断していた。

 目を上げると、斜め前方の受験生が目に入る。左右いずれの者も問題を解く進度が速い。最初の一時間でもう後半の問題に取りかかっているように見えた。指の汗で鉛筆が滑り、何度も手をぬぐった。

 私はあせりにあせった。前半の時間のロスを挽回すべく、猛烈な勢いで後半の問題を解いて行ったのだが、途中、気力が途切れるのだ。身体を伸ばし、首を曲げ、肩をまわして気持ちを切り替える。刻々と時間が迫る。時間と気力との闘いだった。最後までやり終えて、問題の見直しをする余力はなかった。全精力を使い果たしていた。
 試験が終わった瞬間、腰が抜けるほどの疲労を覚えた。目の眩(くら)むような疲れに、真っすぐに歩くのも困難なほどだった。「できたか」と自問したが、「極めて微妙だ」という答えしか返ってこなかった。

 大学を出たところで受け取ったビラに、各専門学校が午後五時から速報会を行うということが書かれていた。三時過ぎに学校を出て、私はその足で池袋の専門学校へ向かった。

 専門学校は、受験生で溢れ返っていた。隣の教室で有名講師が問題を解説しながら、答えを出して行く。私はスクリーンに映し出される答えを、食い入るように見つめていた。

 自己採点の結果、三十二点だった。愕然とした。最初の十四問の民法で、かなり点を落としていた。最後の最後で答えを書き直した三問が、全て不正解だった。直す前の解答が正解だった。引っかかっていた。

 最近の試験では、平成四年、八年、十六年の合格点が三十二点。平成十年から三年続けて三十点だった年もある。そして平成二十年、二十一年は共に三十三点だった。つまり、「極めて微妙な」点を取ってしまっていた。

 数日後、各専門学校が合格点の予想を発表し始めた。それによると、今年の試験問題は意外と簡単だったという総評で、大方の学校が合格点を「三十五点プラス・マイナス一点」と予想した。私は今年の問題は難しかったという感触だった。大きくズレていた。

 試験が終わって三日後、社内旅行があった。社内旅行といっても関東近県での飲み会中心の一泊旅行である。二班に分けての旅行で、私は試験直前の一班を避けて、二班にしてもらっていた。こんな苦痛な旅行はないな、と重い気分を引きずりながらの参加だった。

 宴会が始まって早々、大広間に五名のコンパニオンが入ってきた。とてもじゃないがそんな気分ではない。頼むから話しかけて来ないでくれ、と思いながら飲み始めた。

 宴会が始まって十分ほどたったころ、遠くにいる同僚が、

「コンドーさーん、コンドーさーん、ちょっと来て。早く、早く」

 大きな声で手招きしている。なんだよ、勘弁してくれ。まだ酔っ払った訳じゃないだろう、そう思いながら仕方なく渋々席を立った。

「近藤さん、この人、タッケン受けて来たんだって」

 同僚が、目の前のコンパニオンを指差した。

「○○でーす。よろしくお願いしまーす」

 茶髪でミニスカートのコンパニオンが、満面の笑みを浮かべていた。私は状況がつかめぬまま、条件反射のように差し出したグラスにビールを注いでもらっていた。 (つづく)

               平成二十四年二月立春  小 山 次 男