Coffee Break Essay


 「宅建への挑戦」

 (五)

 宅建の勉強を始めてから、ろくなことが起こらない。親友の自殺、妹のがん、妻との離婚……。次々と起こる凶事に、呪われた勉強かと思うことさえあった。

 私はなりふりかまわず勉強に没頭した。夢中になっていなければ、ついつい妻のことを案じてしまうのだ。すでに彼女は妻ではないのだが、十二年にわたって染みついた習慣は、そう簡単に抜けなかった。妻が妻でなくなっても、娘にとっては血のつながった母親である。そこが厄介なところだった。だが、そんなことよりも気がかりなのは、母と妹のことだった。四月から五月にかけて、私は三度札幌を訪れている。妹は抗がん剤治療を開始していた。

 母を施設に入れることも考えたが、母は嫌がるだろう。妹も、ひとりになるよりも母といた方がいいという。何かと大変だが、頑張れるところまでやりたいという。妹は初回の抗がん剤治療を入院しながらこなして、その年の九月まで計九回にわたる抗がん剤を行った。髪の毛は最初の段階で全て抜け落ちていた。

 妻の枷(かせ)から解き放たれた私は、全ての時間を宅建の勉強に当てた。通勤電車の中はもちろん、仕事の合間にも問題集に向かっていた。休日のほとんどは図書館にいた。

 区立図書館は、資格試験の勉強をしている中高年や、受験勉強の若者でいつもごった返していた。周りを高校生に囲まれ、若さの気迫に圧倒されていた。彼らの持続力や集中力は想像以上だった。私は三十分ごとに休憩が必要だった。

 休みながら勉強しても睡魔が襲ってくる。スタミナドリンクを求めてコンビニへ行く。加えて無類の肩こりに拍車がかかった。

「ひどいな、これは。甲殻類のような背中だ」

 整骨院の先生が腱鞘炎(けんしょうえん)になりかけた。針治療やタイ式マッサージ、韓国アカスリとあらゆるものを総動員したが、それらはいずれも一時しのぎに過ぎなかった。

 そのころ私は国会図書館を利用するようになっていた。国会図書館は、未成年者は入館できず、それゆえ落ち着いて勉強できた。重厚な机とすわり心地のいい椅子があり、隣との距離もファーストクラス並みにゆったりとしており、勉強するには申し分のない環境だった。何より図書館内が広大で、数千人が利用しているのだろうが、その多さを感じさせなかった。また食堂や喫茶店、休憩のためのソファーが充実しており、日がな快適に過ごすことができた。

 日曜日は国会図書館が休館のため、練馬区立図書館と併用して電車を利用した。電車の中での勉強が思いのほか快適だった。主に西武線を利用したのだが、電車の中の方が勉強がはかどるのである。気兼ねなく居眠りができ、疲れたら途中下車して喫茶店に入る。池袋から清瀬の間を何往復したことか。おかげで西武池袋線沿線の駅周辺には、ずいぶんと詳しくなった。

 進めては戻り、新たな問題に取りかかってはまた戻る。千鳥足のように反復しながらやっていた過去問だったが、七月には試験範囲の問題をひと通りやり終えていた。後はひたすら反復するのみだった。三十八度を超える練馬の猛暑も、無我夢中で過ごしていた。

 刻々と試験が近づいていた。私は試験場を自宅から最も近い武蔵大学にした。ある日、下見で武蔵大学に出かけると、大学が司法試験の会場となっていた。ちょうど昼の時間帯で、おびただしい数の受験生が木陰のベンチに座り、食事を摂りながら次の試験の勉強をしていた。一種異様な重い空気がキャンパス内に漂っていた。

 若い女性が意外に多い。何年越しの挑戦だろう、そんなことを思わせる男性もいた。司法試験に比べたら、宅建など取るに足らない塵(ちり)のようなもの。私はその塵に一大勝負を挑む覚悟で立ち向かい、苦戦していた。

 妻が出て行ってから四カ月を過ぎたあたりだろうか、突然妻から電話があった。「うまくいっていないの、どうしよう」という電話である。病気が病気だけに無碍(むげ)にもできない。「相談する相手が違うだろ」といって短時間で電話を切った。そんな電話が三度あった。 (つづく)

               平成二十四年二月立春  小 山 次 男