Coffee Break Essay


 「宅建への挑戦」

 (四)

 良二の死で平衡感覚を失った妻は、男と頻繁に連絡をとるようになっていた。手段は、電話とメールである。携帯電話だと通話料金がかかるので、固定電話を使っていた。それでも都内同士での通話で、月に二万も三万円も話していた。一日に四時間としても、ひと月では優に一〇〇時間を超えていた。私はそれを黙認していた。主治医も止めることはできなかった。

 妻は二週間に一度の外来日に男と会っていたのだが、それが平日にも会うようになり、週に一度から、五日に一度、三日ごとと次第に頻度が増えて行った。練馬から渋谷へ出かけていたのだが、電車で往復する体力がない妻の交通手段はもっぱらタクシーだった。妻が受け取っていた精神障害者年金は、ほとんどタクシー代と飲食代に消えていた。

 あるとき妻から、男と結婚したいと思っているのだがどう思うか、と真顔で相談されたことがある。普通なら「お前、気でも狂ったか」、と一蹴する場面である。だが、そんなことは口が裂けてもいえない。それ以降、同じ相談を何度も受けた。

「ボクはあなたのお父さんじゃないんだよ。夫だよ。相談する相手が違うでしょう」

「普通、こんなことは訊いてこないよ」

 何度こんなフレーズを口にしたことか。あきれ果ててお話にならないのだが、無視もできない。そんな私に、

「普通って何よ。どうせ私はキチガイですからね」

 と食ってかかってくることもある。まったくもって本末転倒なのだ。

「いいか、よく考えてごらん。もし二人が一緒になったとしても、お互いに病気でどうやって生活して行く? 風呂はどうする。誰が頭を洗ってくれる? 食事は? 半年、もたないよ。お互いの破滅が目に見えているだろ。わかるかい」

 言葉を尽くして妻を説得してきた。だが、その「常識」が通じない。それが妻の病気だった。

 妻は家を出る計画を周到に練り始めていた。周到とはいっても、普通の人の五倍も十倍もの非効率な労力を費やしていただろう。妻はひそかに身辺の整理を始めていた。私と娘はそれに気づいていたが、見ぬふりを装っていた。当日、男がレンタカーで乗りつけ、荷物を運び出し、逃げるように出て行ったのだろう。その場面が痛々しく想像できた。

 それから三日後、妻から会ってほしいとの電話があった。妻は会社の近くの喫茶店にいた。私が席に着くや否や、妻は神妙な顔でバッグから書類を取り出し、私の前に広げた。離婚届だった。予想外だった。

 離婚届は妻の字で、丁寧に書かれていた。そのあまりにもきちんとした出来ばえに、目を瞠(みは)った。もちろん妻ひとりの力でできるものではない。男と二人、頭をつけ合せ、あえぎあえぎ書いている光景が頭を掠(かす)めた。二人ともかなりの量の抗精神薬を常用しており、細かい作業ができるような状況ではなかった。よく書いたなと感心してそれを眺めた。

 私は会社にとって返し、押印した。終始無言で一連の作業を終えた。あっけない結末だった。ドラマの一場面を演じている自分を感じていた。

 会社へ戻る道すがらふと見上げると、万朶(ばんだ)の桜が空を覆っていた。そうか、もうそういう季節になっていたのか。桜を目にはしていたが、心に留っていなかったのだ。

 平成二十二年四月五日、離婚届が受理された。私は戸籍謄本を取り寄せ、謄本の妻の欄の左右の隅から対角線上に引かれている線を認めた。バツイチとはこのことか、と改めて思った。まさか離婚が自分のことになるとは考えてもいなかった。

 妻は発病以来十二年間、私にしがみついていた。身内で頼れるのは私しかいなく、私が唯一絶対的な存在だった。妻は私にむしゃぶりついていた。それは見捨てられ感への異常なまでの恐怖心と表裏の関係をなしていた。私への暴力はそんなところからきていた。加えて、拭っても拭ってもまとわりついてくる希死念慮(きしねんりょ)は、隙(すき)あらば妻を凌駕(りょうが)しようと窺(うかが)っていた。

 離婚は、妻の死を意味する。これまで私は身体を張って妻の死を阻止してきた。娘の前で妻を死なせたくなかった。ただその一念だけだった。その妻が自ら離婚を申し出てきた。私にとっては願ってもないことだった。それが正直な気持ちだった。

 妻との離婚を義母に報告すると、

「長い間、本当にありがとうございました」

 電話口で手を合わせている義母の姿が浮かんだ。妻は母親を拒絶し続けていた。 (つづく)

               平成二十四年二月立春  小 山 次 男