Coffee Break Essay


 「宅建への挑戦」

 (三)

 年が明けて平成二十二年三月。三年前に脳梗塞を発症した母を介護していた札幌の妹にがんが見つかった。乳がんである。がんはすでにリンパにまで達しているという。三カ月前の定期健診でマンモグラフィー検査を受けていたが、異常なしの所見だった。妹は四十八歳、独身だった。すぐに入院し、乳房の一部切除とリンパにかけての乳腺の摘出手術が行われた。私は妻をかかえ、身動きが取れなかった。

 娘は大学二年生になっており、数日間なら娘に家のことをまかせて札幌へ行くこともできたが、私が動くことが妻の刺激になる。そちらの方が怖かった。妹もそれを承知していた。親戚や妹の友達の連携で、母の食事の世話や様子を見に行ってもらったりしながら、十五日間の入院期間を切り抜けた。

 そんな最中、妻が家を出た。出奔(しゅっぽん)したのである。妹が退院する前日のことだった。

「後日連絡をします」

 会社から帰宅し、真っ暗な居間の電気をつけたら、テーブルの端にこう書かれたポストイットが貼られていた。

 実はこの日の午前中に、娘から電話があった。

「私、これからバイトなんだけど。あの人、今日、出て行くかも知れない。どうする……」

 娘はいつのころからか、母親のことを「あの人」というようになっていた。母親の尋常ではない行動が、病気のせいだと頭では理解していても、気持ちがついて行かない。心が拒絶していた。

「十分やってきただろう、オレたち。……もう、いいんじゃないか。どう思う」

 と娘に向けると、

「うん、わかった」

 と短くいって電話が切れた。私と娘は、妻を見限った。妻の逃げ道を開けたのだ。

 良二が自殺し、精神のバランスを崩した妻が頼ったのが、同じ病気で数年前からの入院仲間だった男性だった。彼は大手IT企業に勤めるSEだったが、数カ月前に休職期限が切れ解職されていた。妻より二つほど年上だったので、四十二、三歳。真面目にバカを幾つもくっつけたような男だった。そんな彼のまっしぐらな真面目さが、病気の原因だろうと私は密かに思っていた。彼もまた独身だった。

 妻は二週間に一度の外来日以外は、日がなソファーに横になり、ただひたすらCDを聞いて過ごしていた。同じ曲を何度も何度も繰り返し聴きながら、私の帰宅を待っていた。妻は、ほとんど外出が出来なかった。家事もしなかった。家事をし始めるとどうしても頑張り過ぎてしまい、決まって精神のバランスを崩した。何もしないでいてくれた方が、平穏でよかった。私たちは、ただひたすら刺激を回避する生活を送っていた。

 居間の照明を薄暗くする。テレビの音もやっと聞き取れるほどのボリュームに落とす。娘の友達は家に呼ばない。仕事帰りは極力買い物をさけ、出来るだけまっすぐに帰宅する。本屋を覗くことも許されなかった。

 妻の発病後、妄想がひどくなってからの九年間、私は母親に会っていなかった。母の病気の一因も、そんなところにあったのかも知れない。刺激を避ける日常は、妻を取り巻く周りの者をがんじがらめにした。 (つづく)

               平成二十四年二月立春  小 山 次 男