Coffee Break Essay


 「宅建への挑戦」

 (二)

 勉強をするに当たっての最大の枷(かせ)は、妻だった。妻が精神を患っているため、自宅での勉強が思うようにできないのだ。私が熱心に何かに打ち込むことが、妻には面白くない。

「健康な人はいいわね。やりたいと思うことが何でもできて」

 もっと自分に向き合って欲しい、というのが妻の本音である。

 妻は平成九年十二月に発病し、それまでに十二回の入退院を繰り返していた。病名は「境界性人格障害」。加えて躁うつ病のうつが強いタイプ、「双極性障害U型」という、やっかいな病を背負い込んでいた。主治医からは重症だといわれていた。

 発病してからの数年は、次から次へと妄想が湧き起こり、それが私への暴力に発展していた。

「白状しろ、相手は誰なんだ!」

 会社の緊急連絡網を見つけ出し、浮気相手はあなたかと女子社員の自宅に電話したこともある。私は女子社員に土下座して謝って回った。嫉妬妄想である。

 妻はしばしば自傷行為を引き起こした。何度、集中治療室で夜を明かしたことか。処方されている薬を、一度に全部飲んでしまうのだ。過量服薬である。医者はモグラたたきのように、妻の妄想を薬で押さえ込んで行った。薬が効かなくなると、電気痙攣療法を実施した。全身麻酔でのオペ扱いである。ワンクール六回から八回程度で、うつ症状が改善され再び薬も効き始めるのだが、記憶が飛んでなくなる部分も多々あった。

 そんな妻も宅建の勉強を始めたころには、いくぶん落ち着きを見せていた。だがそれは、いつ爆発するとも知れぬ、不気味な休火山であった。マグマ溜まりには着実にマグマが溜まっていた。

 勉強を始めてちょうど一週間目、学生時代からの親友の訃報が飛び込んできた。友達の妻から会社に電話があったのだ。

「どうした? 何かあったのか」

「あった……」

 ありましたではなく、あったという必要以上に感情を押し殺した彼女の声に、ただならぬものを感じた。良二もまた七年前にうつを発症し、会社を辞めてガラス彫刻で生計を立てていた。

「何があった?……」

「良二さんが、亡くなりました」

「えッ!」

 私は前後不覚になるほどの衝撃を覚えた。良二は、長野県の山中で練炭自殺を図ったのだ。高三と中三、来年小学校一年生になる三人の女の子がいた。死ぬ半年ほど前まで、毎晩のようにメールのやり取りをしていた。良二にとって私は長年の友達ということ以上に病気の最大の理解者であり、よき伴走者でもあった。良二は、私に全幅の信頼を寄せていた。私たちはお互い、深い部分で結びついていた。

 そんな良二からのメールが次第に遠のき始めていた。彼のブログを見ながら、私に頼らなくても大丈夫なまでになってきている、仕事が軌道に乗ってきた証拠だ、と私は自分に都合よく解釈していた。実際はそうではなかった。彼は、妻を抱えてあえぐ私に遠慮していたのだ。良二とのメールの通信履歴を再読して、それがわかった。

 良二の死からしばらくの間、私は抜け殻のようになって、何も手につかない日々を送った。気がつくと仕事中でも涙ぐんでいる自分がいた。

 私はその打撃を乗り越えるため、自分に鞭打ち猛然と問題集にかぶりついた。ただ、妻の目だけは執拗に気にしていた。私は妻への刺激を考え、良二の死を伏せていた。だが、どうしても良二の死を告げなければならない場面ができ、さりげなくそれを告げたところ、案の定妻が精神のバランスを崩してしまった。 (つづく)

               平成二十四年二月立春  小 山 次 男