Coffee Break Essay


 「宅建への挑戦」

 (十二)

 娘が退院した翌二十日の夜、仕事を終えたその足で、私は札幌へ向かった。飛び乗るようにして特急電車に乗ったので弁当も買えず、結局夕食はホテルのチェックイン後、夜九時を回ってからだった。外の気温は、氷点下八度と表示されていた。空腹もあったが、札幌ラーメンは真冬がふさわしい、と改めて思った。

 今回は妹のマンションには泊まらず、試験会場のすぐ隣のホテルを予約した。遅刻の許されないスクーリングだったので、雪の心配もあり万全を期した。背水の陣である。

 スクーリングは、午前中に九十分の講習が二回、午後から九十分が一回と六十分が二回である。翌日も同じ時間なのだが、最後の六十分が試験だった。

 講習会には私を含め十九人が参加していた。年齢的には私は上から三番目くらいで、三十代の中ごろが中心年齢だった。二十代前半かと思しき女の子もいた。

 二日間のスクーリング中、彼らとの会話は全くなかったが、同じ試験を乗り越えてきた者たちという親近感があった。試験会場はそれぞれに違うだろうが、宅建に受かった者の顔を見たのは初めてのことで、それが嬉しかった。

 私は娘の入院騒ぎの中で五十二歳になっていた。大学のフル授業のようなスクーリングの日程に、音を上げた。長時間の講義もさることながら、担当講師に参ったのだ。これまで高校、大学といろんな講師を経験してきたが、これほど教えることの下手くそな講師はいなかった。最初、何かの間違いだろうと思った。ささやくような小声、不必要な長い沈黙、意味不明な自己満足のうなずき。見るからに賢そうな講師なのだが、自分の世界の中に閉ざされていた。

「テキストの○○ページを開いてください」

 というこの○○ページが聞き取れないのだ。周りの誰もがそのようで、いたずらにテキストをめくる音がした。彼の眼中には受講生がいなかった。私は最初の三分で気が遠くなった。どんな催眠術師も、この講師には叶わないだろうと思った。

 スクーリングの前に、事務員から釘を刺すような事前説明があった。その説明の中に失格事由があった。遅刻、携帯電話が鳴ること、また携帯が震えるのもダメ。完全に電源を切れという。居眠りも失格事由にあった。私は千円のユンケルと眠気覚ましのドリンク「喝の一撃」、缶コーヒーの「ルーツ」とガム、思いつくあらゆるものを総動員してスクーリングに臨んだ。

 授業自体は難しいものではなかった。眠気との勝負であることは、周りの受講生を見ていてもわかった。突然、前の受講生の頭がガクンとなる。斜め前も横もみんなガクン、ガクンとなりながら過酷な時間を過ごしていた。そんな受講生を前に、講師はマイペースを崩さなかった。

 試験は三十問の○×問題と、穴埋め問題が三十問。穴埋め問題にはちょっと戸惑ったが、前評判どおりに難なくクリアーできた。満点だったと思う。

 かくして私は宅建から解放された。駅に向かう身体が、ふわふわ浮いているように感じられた。室蘭へ戻る特急電車の中で、私は全く放心の態であった。とっぷりと暮れた窓外の風景をただ眺めていた。猛烈な疲れとカフェインの過剰摂取による興奮が、ない交ぜになっていた。

 平成二十四年二月二日、登録実務講習試験の合格通知を受け取った。すでに書類は整えていたので、翌日、北海道の窓口である胆振支庁に宅建免許の申請書類一式を提出した。書類の中には本籍地や東京法務局から取り寄せたものもあった。

 「胆振総合振興局室蘭建設管理部建設行政室建設指導課」という窓口を、文字の切れ目を指で押さえながら、やっとの思いで見つけ出した。書類を出し終えたとき、ゴールのテープを切ったような気分になった。終わったのだ。

 免許の受け取りは、まだしばらく後になるという。

「君はなぜ山に登るのか」と訊かれ、「そこに山があるからだ」と答えたのは、フランスの登山家マロリーの名言である。私は予備校時代の国語の授業で、「この質問に対する答え、答えになっていないようで、実は答えになっている。それはなぜか」という課題を出されたことがある。一週間後に提出というこの課題、五百字以内で記さなければならなかったが、私はとうとう何も書けずに終わっていた。

 あれから三十四年、折に触れて課題のことを思い出すことがあった。「答えになっていないようで、実は答えになっている。それはなぜか……」。だが、答えは見つけ出せずにいた。宅建ごときで何をこいつは、といわれそうだが、今、それが書けそうな気がしている。 (了)

               平成二十四年二月立春  小 山 次 男