Coffee Break Essay


 「宅建への挑戦」

 (十一)

 宅建には続きがあった。

 宅建の試験に受かっても、二年間の実務経験がなければ免許がもらえない。試験勉強の途中でそれがわかった。

 宅建の試験に合格すると「宅建合格者」となる。実務経験が加わって初めて「宅建資格者」と呼ばれ、知事に対して免許の請求資格を得る。免許を手にした者が「宅建主任者」である。そんな段階があったのだ。

 試験に合格して免許がないのはおかしいだろう。ここまでやったからには免許が欲しい。実務経験のない者は、国土交通大臣の「登録実務講習」を受ければ、実務経験を経たのと同等の資格を取得できる。私は宅建の合格証書を受け取った日に、ネットで登録実務講習の申し込みを行った。この勢いでやっておかなければ、勉強ができないと思ったのだ。

 登録実務講習は、DVD等の教材で一カ月の自宅学習をし、国からの委託を受けた専門学校で二日間、十二時間のスクーリングを受け、その最終日の試験で八十点以上を取ることが要件となっている。これでもか、といわんばかりの意地悪である。

 教材は十二月二十二日に届いた。スクーリングは翌一月二十一日からの二日間、札幌の専門学校で受けることになった。かくして再びの勉強が始まった。

 東京に残していた娘が来たので、年末年始を札幌で過ごした。母と妹のいるマンションで過ごしたのだが、紅白歌合戦のさなか、こそこそ勉強をしている私の姿を見つけた妹が、

「なにやってるの、大晦日なのに」

 と呆れている。

「……この調子なら、元旦もやるんダベさ」

 母が輪をかけた。クリスマス・イブとクリスマスは土日だったこともあり、日がな図書館にいた。何をいわれようと最後のあがきである。

 登録実務講習の試験は、受からせるための試験だから、ちゃんと講習に参加していれば大丈夫というブログをいくつも見た。だが、歳が歳だけに不安なのである。○×問題は問題集を見る限り引っかけ問題はなかった。心配なのは筆記である。

 娘は帰りの飛行機が取れず、二日には東京に帰って行った。卒業試験と自動車学校が娘を待っていた。私もその日から室蘭に戻って、本格的に勉強を開始した。

 一月十日の朝、仕事中の私のもとに娘から電話が入った。か細い声で、お腹が痛いという。ひどくならないうちに、早めに病院に行くよう促しておいた。昼過ぎ、今度はメールが入った。文面を見て仰天した。

「動けるようになるまで様子を見ていたら悪化。貧血がひどくてどうしようもなく、救急車を呼びました。いま、搬送中です」

 私は車の運転中だったが、路肩に車を停めて天を仰いだ。何が起こったのだ、と思った。じたばたしてもどうにもならない。どこの病院に搬送されたのかがわからない以上、動きようがない。娘からの次の報せを待つより仕方なかった。今まで何度も修羅場を潜り抜けてきた。この程度のことでは動じない、そう自分にいい聞かせていた。

 娘から連絡が入ったのは、夜の八時を回ってからだった。さすがの私も疲労困憊。どうなった。どこでどうしている。ネガティブな心配が泡のように湧いていた。やっぱり宅建の勉強には、不吉な何かがある、間違いないと考えていた。

 娘は川崎の病院に搬送されたのだが、偶然にもその病院から歩いて十五分ほどのところに、別れた妻の母親がいた。娘は祖母を頼った。不幸中の幸いだった。何かあればすぐに駆けつけるということで、私の上京は様子見となった。

 結局、娘の腹痛の確たる原因はわからず、十九日に退院した。私はとうとう病院に行かずに終わった。 (つづく)

               平成二十四年二月立春  小 山 次 男