Coffee Break Essay


 「宅建への挑戦」

 (十)

 こんな安易なことで合格していいのか、それが正直な気持ちだった。「バンザイ!」と叫び、「やったー!」とガッツポーズをとる、そんな構図ではなかった。どう考えても、この試験、「マグレ」なのである。

 その夜、私は宅建コンパニオンに三十八点の報告をした。彼女は、私のメールを待ってくれていた。遅かったのが心配だったようである。

「この喜びは、苦労して勉強した人にしかわからない感動だと思います。本当によかった。おめでとうございます」

 彼女のメールの文字が不意に歪んだ。不覚にも涙が溢れた。

 平成二十三年十一月三十日、ネットでの合格発表があった。自分の受験番号を見つけ、素直に嬉しいと思った。合格点は、三十五点だった(今回の試験には無効問題が一問あり、受験者全員に一点が加えられ、公式には三十六点が合格点)。

 北海道の受験者の合格率は一四・七パーセントで、合格者の平均年齢は三六・二歳だった、と地元の新聞が報じていた。私の席のすぐ後ろの女の子は合格していたが、前の受験番号は三十九番も飛んでいた。この試験、建設業界などが団体で受けに来るケースもあり、受験者のレベルによっては、根こそぎ落ちることもあり得ると後日聞いた。合格者の受験番号を丹念に見てゆくと、そんな欠落がいくつかあった。

 その日の午後、簡易書留で封書が届いた。その封筒には、「宅地建物取引主任者資格試験合格証書在中」と記されていた。合格通知が入っていた。

 数日後、札幌の母と妹のもとを訪ねた。近所で幼馴染の夫婦が小さなイタリアンレストランをやっている。久しぶりに一杯やろうと、慣れない雪の夜道を店に向かって歩いていると、途中、玄関に白い紙が貼り出されているビルがあった。何気なくその紙に目をやったとたん、私の名前が飛び込んできた。宅建の合格発表だった。そのビルには「北海道宅建協会」という看板が出ていた。貼り紙の上から六番目に「0053‐近藤健」とあった。思いもかけぬところで自分の名前に遭遇し、無性に嬉しくなった。

 思えばこの勉強、会社の窓から見えていた東京スカイツリーとの競争だった。今、会社の窓に目をやると、雪をかぶった室蘭岳が正面に横たわっている。その左端には、ロウ石のように真っ白い羊蹄山も覗いている。新日鉄室蘭工場の煙突の煙が、北から南へ長くたなびき、ときおり横殴りの雪が降ってくる。山から海に向かって叩きつけるような雪である。

 試験勉強を始めた二年の間に、私を取り巻く環境が一変した。一年余分に勉強したが、スカイツリーの開業には何とか間に合った。当初の目的は達成できた。

 東京にいた当時、宅建を熱心に勧めた上司がいた。

「土地の売買があったとき、こっちにも手数料が入って来るんだよ。宅建持ってると」

 彼が地方支店にいたとき、大きな顔で手数料を取られたという。だからお前がガンバって宅建を取れ。ことあるごとにいわれていた。彼は役員だった。

 私は悩んだ末、彼の進言に従い、試験に挑戦する決意をした。勉強の覚悟を決めるのに半年を要した。エッセイの予備選考の辞退、自分の執筆活動の停止、読書の中止。手のかかる妻を抱え、どうやって勉強するか……。この年齢じゃ、無理だろう。これが決断に半年を要した理由である。

 合格が確定し、その上司に満を持して報告をすると、

「えッ! お前……まだ勉強してたの?」

 と返ってきた。人生とは概してこんなものである。

 私が資格を取得しても、会社が宅建業でなければ手数料は入って来ない。宅建業登録をするには、高額の預託金が必要になる。相応の売買等の契約がない限り、採算が合わない。これが私の二年間の勉強の成果である。

 かくして宅建の資格は、私の個人的な「御守り」と化した。守ってくれるかどうかは、はなはだ心もとないが。 (つづく)

               平成二十四年二月立春  小 山 次 男