Coffee Break Essay


 「宅建への挑戦」

 (一)

「ゴメンなさい。ボクはもうこれ以上がんばれません」

 聞き捨てならない言葉だが、遺書ではない。

 二年間越しで宅建(宅地建物取引主任)の試験に挑戦し、二度目の試験を目前に吐いた弱音である。久しぶりにめくった問題集の端に、走り書きをみつけた。平成二十三年十月六日と、ご丁寧に日付まで記してある。試験十日前のことである。

 私は五十歳を目の前にして宅建の勉強を始めた。それは「書き込み不能」の脳ミソに、パン粉を捏(こ)ねるように知識を刷り込む作業だった。ただひたすら過去問を解く、修行のような一念で勉強してきた。三冊で七三〇問ある問題集を一巡して再び戻ってくると、前に解いた問題が初めまして、とでもいいたげに澄ましている。おのれの忘却力のすさまじさに呆然とする。やっぱりダメなのか、と心が萎える。そんな繰り返しの日々を送ってきた。

 二年近く前から睡眠障害に悩んでいる。寝つきが悪いのだ。寝酒もよくないだろうと、かかりつけの内科医に相談すると、いとも簡単に睡眠導入剤を処方された。仕事で飲んで帰ってきた日は、さすがにそのまま眠れるのだが、そうでない日は薬に頼ることが多い。

 試験が近づくにつれ、問題を目にすることが苦痛になってきた。それでも自分をねじ伏せるように問題集に押しつける。だが、何度同じところを読んでも、文章が頭に入ってこない。激しい拒絶反応である。これが弱音の種明かしである。

 平成二十一年十月、私は一大決心をして宅建の勉強を始めた。仕事上の必要に迫られたのだ。会社の窓から建設中の東京スカイツリーが見えていた。日増しに伸びてゆく塔を眺めながら、「よし、あれと競争だ」と覚悟を決めた。決心に半年を要した。スカイツリーの開業は、平成二十四年の春だが、私は平成二十二年十月の一発合格を目指した。時間をかけてはいられなかった。

 宅建の試験は年に一度、十月の第三日曜日である。私はサラリーマン生活の傍ら、所属している同人誌が主催するエッセイ賞の下読みを行っている。四〇〇本ほどの応募原稿を読み、五段階評価をして一本一本にコメントをつけるのだ。七月から三カ月間、毎年この作業に忙殺されていた。今回、この下読みが終わるのを待って、宅建の勉強を開始した。翌年の下読みは、あらかじめ辞退を申し出た。平成二十一年九月下旬のことである。

 勉強開始早々、難解な法律用語と、奇天烈な日本語のいい回しに頭を抱える日々を送った。

「Aには、相続人となる子BとCがいる。Bは遺留分に基づき減殺を請求できる限度において、減殺の請求に代えて、その目的の価額に相当する金銭による弁償を請求することができる」

 イエスか、ノーか。問題文が頭に入ってこない。匍匐(ほふく)前進でフルマラソンに参加するような勉強だった。難解な日本語に慣れること、力ずくで頭に刷り込むこと、ただそれだけに専念した。年齢との闘いだった。 (つづく)

               平成二十四年二月立春  小 山 次 男