Coffee Break Essay
『出産』 もう生まれそうだ、という電話を会社で受けた。心してはいたが、唐突であった。 かねてから出産に立ち会って欲しいと妻から懇請されていた。 おいおいマジかよ、というのが本音であったが平静を装って、ああいいよと気軽に答えていた。 考えてみると、犬、猫、家畜はともかく人間の出産シーンは、そう滅多に見られるものじゃない。 ひと昔前なら男がそういう場にいること事態、考えられないことだ。 好奇心が頭をもたげ出していた。 出産予定日を二、三日過ぎていたが、朝は普通であった。 その日はちょうど産婦人科の定期検診日で、子宮口が五センチも開いているということで、そのまま入院となった。 じゃ、もう頭が見えているんじゃないか、とても間に合わないなと思いながら慌てて会社を出たが、そこは男の浅はかさ。 子宮口とアソコは別物だった。 病院に着くと、手術衣の青い服とズボンに着替えさせられ、帽子まで被らされた。 その間、看護婦が血を見ても大丈夫かと執拗に訊いてくる。 大量出血の場面に出くわしたこともないし、やってみなければわからないので、とりあえずは大丈夫と言うしかなかった。 妻に約束した手前、今さら自身がないので止めるなどとは言えなかった。 話によると、夫が出産に立ち会うケースが増えているのは好ましいことなのだが、出血を見て卒倒する夫が相当数いるという。 倒れても、出産処置が終わるまでそのままにしておかねばならない、それでもいいかというのだ。 脅されたおかげで、えらく緊張してしまった。 分娩室に入ると、妻は既に分娩台に座っていた。 リクライニングしていた、という表現の方が正しいかもしれない。 それは床屋のイスを立派にしたようなものだった。 ただ、相当なハイテク機らしく、妊婦の体型に合わせてイキミやすいように、ボタン操作で自在に変形できるようであった。 さながら発射直前の宇宙飛行士の感があった。 ただ決定的に違っていたのは、妻の下半身が丸出しであったことだ。 何故か私の方が恥ずかしくなりドギマギした。 妻にしてみれば痛みがひどくて、恥ずかしいもヘッタクレもない状況だったという。 妻と同室に同じく出産を待つ女性がいた。三人目だという。 陣痛が来たので自分で車を運転し、すっ飛ばして来たらしい。何とも逞しい。 初めての出産を前に緊張している妻に「だいじょうぶ、案ずるより産むが易しっていうでしょ」と励ましくれたらしい。 妻の苦しみようは尋常ではなかった。それが次第に激しくなる。 テレビや映画でだいたいの想像はついていたが、実際は違った。 それは生と死の鬩(せめ)ぎ合いであった。 息詰まるような緊迫が波状的に襲ってくる。それが数時間にも及ぶ。 テレビなどのせいぜい数十秒のシーンとは土俵が違った。 ただごとではない、何だか大変なことになってきたぞと思う頃、助産婦が医師に呼び出しをかけた。 先生は夕食の途中だったらしく、しばらくしてからノッソリと現れた。 私はといえば、妻の手を握ったり、額の汗を拭いてやったりして、まるでドラマに出てくる夫を演じていた。 ときおり下半身の方に回って様子を見に行く。 普段なら生ガキのようにしょぼくれているものが、皺(しわ)ひとつなくツルリとし、さながら満月が出ているようであった。 もうエッチなどという感情はなく、そこはまもなく誕生するであろう娘の出口であった。 やがて、娘の頭が見え隠れするようになるが、なかなか出てこない。 もともと体力のない妻の消耗を考え限界と判断したか、先生が「インブセッカイ!」と言ったかと思ったら、右手にはすでに銀色に光るハサミを持っていた。 麻酔もかけずにアソコを切ってしまった。 その「シャリッ」という音は、十四年を経た今も耳にこびりついていて、思い出すだけで鳥肌が立つ。 一センチほど切ったようだが、妻にとっては陣痛の痛みの方が勝っていたらしい。 ほどなくして渾身の力でふんばり、先生がそれに合わせて浮き袋の空気を抜くように、膨らんだ腹をギュッと下へ押し込んだ。 その途端、液体がベチャベチャーと落ちる音がして、娘がナメクジのようにヌルリと出てきた。 一呼吸おいて、激しく泣いた。 産声を聞きながら「ああ生まれた。いよいよ始まる・・・」、新たな人生が始まると漠然と考えていた。 そのとき先生が、ご主人ビデオは・・・、カメラもないの! と残念がっている。 私は力が抜けてそれどころではない。 そんなものはハナから用意していないし、その瞬間は、男は見てはいけないものと考えていた。結局、大出血は見ずに終わった。 よく感動的な瞬間などというが、そんなものじゃない。 五体満足に生まれた安堵と、ドーッと吹き出た疲労感しかなかった。 へその緒がつながったままの白くふやけた娘が、真っ赤な顔で泣きながら妻の腹の上に乗せられたときも、決してかわいらしいとは思えなかった。 むしろグロテスクの方が先にたっていた。 一段落して分娩台に横たわる妻のもとに、ニコニコしながら助産婦がコードレス電話(当時は珍しかった)を持ってきて、親に電話しろという。 出産を終えたばかりの妻からの電話に、いずれの母親も仰天した。 お前が生むんじゃないから、男は仕事をしていればいいとか、 出産に立ち会うなんてちょっとヤワじゃないか、言葉にはならないがそういう雰囲気が私の周りにはあった。 自分もどちらかというと、そちらの側にいた。 ちょっとやそっとの痛みではない、身体が割れるかと思ったと妻は振り返る。 私が傍らにいてくれたので、とても心強かったという。 先生や助産婦からは、軽いお産、安産だったと言われ、愕然とした。 命を産み落とすための作業が、命を落としかねないものだと身をもって実感した。 当時のことが今も生々しく思い返せるほど、私にはインパクトの強い出来事であった。 産声が耳をつんざくほどのけたたましいものだということを初めて知った。 女の業を視、叫びを聴いた。 妻の傍らで青白い顔の私が呆然と立っていた。 父親と呼ぶには余りに非力な、情けない姿だったと思う。 ただ、これからもっと猛烈に仕事をしなければ、とどこか遠くの方で考えていた。 平成元年の記憶である。 平成十五年七月 小 山 次 男 |