Coffee Break Essay


 『はずかしいと思うこと』

 近年、恥ずかしいという感情が富に減退して来ている。クシャミをした後「畜生!」といわなければ気が済まなくなった。寒ければためらいもなくモモシキをはく。銭湯や温泉に行くのも全く抵抗がない。四十を越えてオヤジが入ってきたなと強く感じる。こんなはずではなかったのだがな、と思っている。逆に、恥ずかしいと思うことも出てきた。

 年がら年中パソコンに向かって仕事をしているせいで、漢字がさっぱり書けなくなった(もとからたいして書けなかったのだが)。人に訊けないようなごく簡単な字が、咄嗟に出てこない。辞書を引けばいいのだが、近くにパソコンがあるので、すぐに変換してしまう。それがいけない。

 また、自分が読んでいる本をひとに見られるのも、恥ずかしい。まわりは気にもしていないのだろうが、自分の内面を視られているようで嫌なのである。

 書店で本を買うと、何もいわないのにわざわざブックカバーを付けてくれる。本の表紙が汚れるという気遣いもあろうが、本意は別にありそうだ。スーパーで生理用品を購入すると、レジでサッと紙袋に入れてくれるのとどことなく似ているような気がする。

 反面、他人が読んでいる本がとても気になる。特に文芸書の場合は、覗き込みたくなる。よく知っている本だと、まもなくいいところに差しかかるぞとか、意外な結末が待っているぞ、と耳元で囁きたくなる。

 ある日、歩道で信号待ちをしていたとき、営業マン風の若い男が、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読んでいた。見ると最終巻のそれも最後の方だった。炎天下、大汗をかきながら食い入っている。止めるに止められない気持ちはわかる。読後彼は、はるか遠い水平線を見るような目つきで、日本の行く末を数日間は、考えたに違いない。

 電車の中でのこと。部活帰りらしい中学生が私の前の席に座った。運動をした直後の様子であることは、上気した顔でわかった。小柄で華奢な少年であった。児童の面影を残したその少年は、席に座るなり、ズボンの後ろポケットからサッと文庫を取り出した。表紙のない新潮文庫だった。小口が捲れ上がるほど古ぼけた本で、『三四郎』と読めた。少年の目は真っ直ぐに文字を拾いはじめた。ポケットから取り出したのが、ゲームボーイでもなく、携帯電話でもない。夏目漱石であるところに、爽快さを感じた。

 話がそれたが、人前で名前を呼ばれることも恥ずかしいものだ。病院の待合室や銀行などで自分の名前を呼ばれると、ドキッとする。特に病院は、人違いを避けるため、フルネームで呼ぶ。周りのひとに自分の名前がバレてしまう。この人が近藤健か、と自分を見ているのではないかといった意識状態になり、一刻も早くその場を離れたくなる。見知らぬ人の前で名前を呼ばれることは、人前に裸をさらされたような気持ちである。

 日本人は、他人を呼ぶに際し、個人名を避けるきらいがある。役職とは便利なもので、相手を社長、課長と役職名で呼ぶ。しかも敬称がいらない。以前に会社で、人事制度改革とやらで、主任、係長、課長代理などという役職が廃止されたことがある。年配の上司を○○さんと呼び慣れるまで、とても気まずい思いをした。

 家庭でも似たようなことがある。札幌の伯父さん、神戸の叔母さんなどがそれにあたる。札幌から電話だよとか、神戸が病気だってさ、という。

 平安朝を築き上げた藤原氏一族は、京都の街のいたるところに屋敷を構えていた。みな藤原さんなので、住んでいる地名や通りの名で呼び合った。堀川通りの藤原さんは堀川さん、七条通りは七条さん、加賀の国に派遣されたのは、加藤さんと。それがそのまま姓として定着してしまった、と司馬遼太郎氏はいう。

 日本人の場合、直接相手の名前を呼ぶというのは畏れ多いことであり、相手と対等になったように感じ、失礼だという意識が起こる。アメリカ人のようにファーストネームだけで呼び合う文化はなじまない。

 私の姓はありふれた一般的なものだが、ちょっと変わった姓のひとには、一方ならぬ苦労があるようだ。学生時代の友人に釘貫君がいた。初登校の日に先生が一人一人の名前を呼び上げた。彼の番になって、先生が一瞬ためらうような間をおいて、クギヌキタカオクーンといったとき、教室に小さなどよめきが起こり、みんなの視線が釘貫に注がれた。耳の裏まで真っ赤にして、消え入りそうな彼を気の毒に思った。こいつは中学、高校とクラスが替わるつど、この苦痛の時間を過ごしてきたのだろうと思った。

 「ネギ」という姓の友人がいた。とても陽気な男で、しかも巨漢であった。初めての人には、「俺、太っているからタマネギなんだ」と自ら開き直っていた。彼も釘貫と同じ苦痛を幾度となく味わって来たに違いない。

 以前、休日の救急病院の待合室で、患者と先生の印象的なやり取りに出くわしたことがある。廊下を歩きながら、

「明日、また、私を呼び出して下さい」

 と立ち去ろうとする先生の背に、患者の家族が声をかけた。

「あの……先生の名前は――」

「あっ、ボク? ――リンゴモギタテ」

「……」

「茂木立だから、リンゴモギタテ。もう忘れないでしょう」

 そういって足早に歩き去って行った。通りすがりにたった一度耳にした名前なのに、忘れようにも忘れられない。

 会社の同僚に穂積さんという女性がいた。実家が喜多方市の神社だという。『聞けわだつみの声』という太平洋戦争で死んでいった若者の遺書を集めた本がある。この「わだつみ」は、わた(海)つ(の)み(神)のことである。もしかして、「ホヅミ」は「稲の神」かなと思い、稲荷神社ですかと訊くとそうだという。先の「ネギ」君も禰宜、権禰宜という神職の階級を示す言葉からきているのだろうが、本人に確かめる機会を逸してしまった。

 名前にも歴史がある。知識があれば、意識が変わり、見方もおのずと違ったものになる。

 近年、特に恥ずかしいと思うのは、年をとってきたということである。年齢を重ねているわりに、中身がスカスカなのである。それが恥ずかしくて仕方ない。

                    平成十八年十月  小 山 次 男

 付記

 平成十三年四月『羞恥心』を改題し、加筆。