Coffee Break Essay

『祝電』は、平成15年4月27日、「第8回随筆春秋賞」最優秀賞を受賞致しました(近藤健本名で出品)。
これに伴い、著作権が随筆春秋に帰属することになりましたが、主催者のご好意により、
引き続きホームページに掲載させて頂いております。
なお、『祝電』は、同人誌「随筆春秋」19号誌(平成15年3月発行)に掲載されております。

<参考>
第8回随筆春秋賞
選考委員 佐藤愛子、早坂暁、金田一春彦、斎藤信也、堀川とんこう
応募総数 384編

随筆春秋
〒185-0012 東京都国分寺市本町3-10-19-205
TEL:042-326-1217
主催者 斎藤信也


   『祝電』




  学生時代、京都でアパート暮らしをした。
 隣室に同期の中谷がいた。姫路出身で、播州赤穂訛り丸出しの実直な男である。
 ぶるいの阪神タイガースファンであった。
 阪神戦のときは、テレビの前でメガホンを叩きながらの応援。阪神が勝つと決まって球団歌、六甲おろしを歌う。夜の闇の遠くあちらこちらから六甲おろしが聞こえてくる。巨人に勝った日は特に凄い。なるほどこれが関西かと思った。
 ある日、ナイトゲーム対巨人戦を私の部屋で一緒に見た。その日勝つと阪神三連勝である。いつにも増して熱がこもった。土壇場で阪神が、代打川藤のサヨナラ逆転ホームランで勝った。描いたようなゲームであった。さっそく祝賀会。
「サイコーの気分や。今日はな、なにがあっても怒らへんで。川藤が男、見せたさかいな」
外はいつの間にか大降りの雨になっていた。
深夜までかかって、その日のプロ野球ニュースを全部見た。よく飽きないものと感心。途中、京都南部に大雨洪水警報がニュース速報で流れたが、気にも留めなかった。
「あした、早う起きて売店のスポーツ新聞、全部買わなあかんな」
のんきなことを言いながら、いい気分で部屋へ戻って行った。
 しばらくして、隣からワーともギャーともつかない大きな声がし、中谷が鉄砲玉のように部屋を飛び出した。やってもうたー、という声とともに、階段を駆け上がって行く。何事かと私も後を追った。
屋上の扉を開けたところで、中谷が呆然としていた。その視線の先に白い固まりが見えた。雨上がりの湿気が、闇の中を漂っている。夏の臭いがした。
「朝から干してたんや」 
なす術のない声である。さっきまでの勢いは、どこにもなかった。
恐る恐る近づくと、たっぷりと雨を含んだ蒲団が、いかにも重そうに屋上の縁にかかっていた。どちらともなく、笑い出した。のたうち回るほど笑った。笑うしかなかった。
「どないしょ」
中谷が蒲団を持ち上げようとしたが、ジャーと水が落ちてきた。
「わいの蒲団、今なら百キロはあるで」
今日の試合、阪神が負けていたら、と考えるとゾッとした。
それから数日間、蒲団を干し続けたが、とうとう使い物にはならなかった。

 三回生のころだったろうか、例のごとく最下位争いをしていた阪神が、突如、連勝を始めた。
「もーあかん、甲子園 いこや」
中谷の呼びかけで、アパートの住人4、5人と連れ立って甲子園へ出かけた。私は初めての甲子園球場にわくわくした。
試合開始の四時間も前に球場に着いた。外野スタンドは、すでに大勢の観客。今日、阪神が勝てば11連勝。しかも対巨人戦。巨人選手は、練習中から関西弁で味噌糞に罵倒される。これで巨人が勝ったらどうなるのだろうか、と思った。私は、当然巨人ファンなのだが、しっかりと釘を刺されて来た。
「阪神ファンの振りしなかったら、殺されっで。ええか、絶対応援したらあかん」
 六甲おろしが歌えなければ、危険だということで、真剣に練習してから甲子園に入った。ファンの熱狂ぶりを見て合点がいった。
 試合は、阪神が勝った。球場の外に出たら、阪神ファンが隠れ巨人探しをしているではないか。持ちものを目印に探しており、何人かが見つかっていた。大勢の阪神ファンに取り囲まれて、六甲おろしを浴びせられている。身の危険を感じた。
やっとの思いで阪神電車に乗ると、そこでも六甲おろしの大合唱。梅田のコンコースでも皆、歌を唄いながら歩いている。一曲歌い終わるとバンザイ三唱、そしてまた歌。阪神11連勝、という号外まで出ていた。とにかく凄いと思った。

 卒業試験で、彼はドイツ語を落とした。留年である。彼の落胆は、見ていて気の毒になるほどであった。声もかけられないほどに、憔悴していた。アパートを引き払った彼は、姫路から新幹線で学校に通った。年賀状以外の音信は途絶えた。
 そんな別れかたをして2、3年後であったか、阪神がまさかの優勝をした。テレビに映し出されるファンの熱狂を見て、中谷を思いだした。破顔して驚喜しているであろう彼を想像した。これで全てのわだかまりも流れたと判断した。
 その夜、私は、祝電を打った。阪神優勝オメデトウ。永年ノ念願叶イ云々、文はかなり練った。装丁も奮発して金糸銀糸の刺繍の豪華なものにした。我ながら祝電という思いつきに、大満足であった。勝ち誇ったような気分になっていた。
 彼のことだから、その日のうちに意気込んで電話をくれるだろう、と待ちかまえていた。が、来なかった。矢も楯もたまらず、甲子園へ行ったのだろうと想像した。翌日も電話がなかった。連絡が来たのは、4日目の夜であった。心なしか声に張りがない。しばらくお互いの近況を話した後で、気になって、どうしたのか訊ねた。電話の向こうで口ごもる気配が感じ取れた。
「実はな、爺ちゃん死んでもーてん。むちゃむちゃ元気やったんやけど、脳梗塞やってん。気ぃ悪うすなよ。わいと自分の仲やから言うで。通夜やったんや、電報来たとき・・・でも嬉しかったで、ほんまに」
 私は、言葉を失った。卒倒するほどの衝撃であった。頭を抱えてその場に座り込んでしまった。
 まずいと思ったのか、数日後、手紙が届いた。念願の優勝を目前にしての突然の不幸、家族全員混乱していて失礼をした、やっと落ち着きを戻したなどと書かれていた。最後に本音があった。
「あの日は、ほんまに参ってもうた。次々に届く弔電の束に、金ピカの祝電が混じっとった。前代未聞やな」
 弔電の仕分けをしていた伯父が、ええ友達やな、とそっと渡してくれたらしい。告別式が終わり一段落したところで、私の電報の話題になった。それで電話をくれた。

 告別式では、六甲おろしを流してお別れしたらしい。その後、私の祝電は、爺ちゃんの仏壇で、燦然と輝いているとのことだった。

    平成十二年九月   小 山 次 男