Coffee Break Essay



  『修学旅行』



この三月、娘の中学の保護者会に参加した。寒い体育館で一年半も先の修学旅行の説明があった。
二泊三日の京都・奈良である。
配られたプリントに「自由行動の際、安全対策として各班にPHSを持たせます」とあった。
位置検索システム付PHSだという。
今では旅行代理店のオプションサービスとして常識らしい。

「生徒が今どこにいるかは、PHSの電源を切らない限り瞬時に把握できます。迷子にもなりません。――便利というか、まったく凄い時代になりました」

説明に立っていた頭の薄くなりかけた先生も、なかばあきれた様子で苦笑い。

これじゃ自由行動もヘッタクレもないだろう。
修学旅行の最大の息抜きが人工衛星によって監視さる時代になったのだ。
ちょっとでも決められた枠をはみ出しただけで、
先生から電話がかかってくるなんて、たまったものじゃない。
「道に迷って遅くなりました」という誤魔化しが利かなくなったのだ。

「これは教育ではない。修学旅行の意味がないじゃないか。迷うからいんだ、迷うから。道に迷う、そこで初めて立ち止まって考える。進むべきか、戻るべきか。それこそが人生教育だろう」

迷走している自分の人生を棚に上げて、ついつい意見を言いたくなる。

このPHSの話し、他人ごととは思えなかった。
こんなものを持って会社へ行くようになったら大変だ。
携帯電話ですら束縛されるようで嫌なのだ。
腕時計すらしていない。結婚指輪はやむなく渋々。

「あなたッ! こんな時間に何でそんなところにいるのッ!」

これは御免である。シャレにならない。
ただ、飲んだ帰り電車を乗り過ごさなくなるかも知れない。
いきなり電話がかかってきて「あなたッ! 次の駅よッ!」。

私の中学の修学旅行は青森であった。
自由行動であらかじめ決められた課題を早々(適当)に切り上げ、
我々の班は弘前市内のボウリング場に駆け込んだ。
実は、自由行動の課題を調べているときから、ボウリング場の場所を確認していたのだ。
ボウリングブーム全盛期の余熱がまだ十分にある一九七四年、
「リツコさん、リツコさん、さーわーやーかーリツコさん♪」の時代(プロボーラーの女王、中山律子が出ていたCMソング)である。

ボウリング場に入ってギョッとした。予期せぬ先客がいたのだ。
先生達が楽しそうにやっているではないか。
教頭なんかはワイシャツの腕を捲(ま)くり、頭からは湯気を立てんばかりに張り切っている。

入ってすぐに見つかった。「ヤッベー、怒られる」と誰もがひるんだ。

「――まあ、やることは一応終わっているんだから、二ゲームぐらいならいいぞ」

体育の先生が見たこともない優しい顔で言った。
そのかわり先生たちがボウリングやっていたことはナイショだぞ、という。

我々は恐る恐るやったのだが、離れたレーンの先生たちは大いに盛り上がっている。北海道の田舎の街にはボウリング場などなかった。
だから都会に出る修学旅行こそ願ってもないチャンスであった。
その後、二グループほどの生徒が入ってきた。
考えることはみな同じ。秘密も何もあったものじゃない。

十和田湖畔の恐ろしく汚い旅館と、このボウリングが修学旅行の忘れ難い想い出となった。

もうひとつ、生まれて初めて本州という土地を踏んだのが、このときであった。
ほとんどの者にとって初めての本州。親の世代は「内地」と表現する。
本州とはどんな感触だろう、とワクワクして青函連絡船を降りた。
アポロ宇宙船が月に着陸したのが五年前である。
月面に第一歩をしるしたアームストロング船長ほどの気負いが、我々にはあった。
当時は函館まで汽車で八時間、そこから青函連絡船で四時間の行程。
本州は遠かった。

初めて京都・奈良へ行ったのは高校の修学旅行だった。
十一月下旬、吹雪の朝の出発であった。
寝台車で目覚めたら、窓外には朝日に煌(きらめ)く大きな海。
それが琵琶湖であった。
瓦屋根、木になっている柿、椿や楠(くすのき)などの常緑広葉樹、そして古都。驚きの体験であった。
ここにもう一度来よう、それが大学を京都に選んだ理由となった。

京都には年がら年中修学旅行生がいる。それも半端な数ではない。
その姿を見ると、かつての自分もこの一人だったのかと思う。
夜の七時前後の新京極は、日本全国から来た修学旅行生で溢れかえる。
夕食後、お土産を買う京都最後の楽しいひとときである。
ガンを飛ばして睨み合う怖い輩(やから)もいる。

一年も京都にいるとイントネーションこそ不自然だが、すっかり関西弁になってしまう。
不思議なことに、東北生まれのひとが東京に長年住んでもなかなか訛がとれないのに、関西にいると短期間のうちに消失してしまう。
私も「そりゃ違うべや」「そんなことないっしょ」と自負をもって使っていた北海道弁が、まるっきり話せなくなった。
よほど意識しない限り言葉に出せなくなる。関西弁の魔力である。

「自分ら、どこから来はったん?」

買い物をしている生徒に幾度、声をかけたことか。
京都弁で話しかけられるのは嬉しいものである。
敵はこちらが北海道の田舎者とはつゆ知らず、目を見開いて驚きと喜びを満面に湛える。
話しかける相手は、もちろん女子高生。しかも田舎者くさいのを狙う。

「――ええなぁ、修学旅行か。どこ回って来はったん? やっぱ、昼は嵐山かいな」
「みんな、京都は初めて? ええ想い出つくっていきぃや」

という調子である。あまり長々とやるとボロが出るのであっさりと切り上げる。

あるときふと懐かしいイントネーションの会話が飛び込んできた。
これは北海道東部地方の訛りに間違いないと思い、

「自分ら・・・サマコウ(様高)とちゃう?」

当てズッポに言ってみたら、そうだというのでこちらがのけぞった。
私の田舎の高校である。
女の子五人くらいのグループだったのだが、
「エー、何でー? キャー、エー」とえらい騒ぎになり、あっという間に十五、六人くらいの女の子に取り囲まれてしまった。
先生まで出てきた。「実は私、様似(さまに)出身で・・・」このときばかりは、誤魔化しが利かなかった。
北海道でもあまり知る人のない地名を、はるか京都で突然言われたのだから無理もない。

「へーェ、法然院さんから歩かはったん。若いひとはええなァー。
――またえらい遠く(北海道)から来はって・・・勉強しいに京都にきなはれ。
京都にはな、学生はん、ようーけいてはるし」

修学旅行の我々に、老女が熱いお茶を淹れてくれた。
底冷えの街を歩き疲れて、立ち寄った小さな寺でのことだった。
このときの温かみは生涯忘れ得ぬ想い出となった。

                      平成十五年六月   小 山 次 男