Coffee Break Essay



 
 「小説が書けない」


 エッセイを書き始めて十三年になる。二〇〇〇年、四十歳を機に書き出した。手持ちの作品は、二百本を超えた。さすがにネタがない。テーマが閃いて一気に書くということがなくなった。題材はすでに出し尽くしている。

 日常の些事を終え、パソコンに向かう。真っ白いディスプレイに向かい、キーボードにそっと指を置く。左手の小指が「A」の位置を捉え、薬指から順に「S」「D」「F」と。右手の人差し指は二文字おいた「J」から並ぶ。左右の親指はシフトキーの上でハの字の形で向き合っている。あとは指が動き出すのを待つだけだ。

 だが、たいていの場合、酒量だけがいたずらに進む。ああ、今日もダメか……そう思ってキーボードから指を離す。何か書けそうな気配がすると、指が自然に隊形を整える。無意識の動作である。

 私のパソコンの一時保管フォルダには、数多くの文章の断片が保存されている。ゴールが見えないまま書き出した文章のカケラである。ときおりそれらを読み返し、パッチワークのように並べ替えてみる。そんな中で、作品が出来ることがある。これまでびくとも動かなかった断片が、求心力を得たかのように突然動き出し、作品に仕上がることもある。だが、それは稀なことで、そういうものに限って出来は芳しくない。

 たとえば、次のような書き出しの断片がある。

 会社が休みだという気のゆるみから、起き出したのがいつもより遅かった。

 しばらく前から目覚めていたのだが、寒くて蒲団から抜け出すタイミングを見つけ出せずにいた。四十代の半ばを過ぎたあたりから、休日でも疲れが体の芯でくすぶっている。

 あんなに暑かった夏が嘘のようだ。天井の染みを眺めながらそんなことを考えている。頼りなげになったカレンダーを目で追い、またひとつ歳をとるなと思った。そんなことを考えると憂鬱な気分が霧のように立ち込めてくる。「アア、イケナイ」と、勢いよく蒲団を剥(は)いで上半身を起こす。そのとたん、ブルッと身体が震えた。冬は苦手だ。

 寝室のカーテンを開けると、どんよりとした冬空が広がっている。階下に下り、朝刊を取ろうと玄関のドアを開けたとたん、けたたましい鳥の鳴き声が寒気を劈(つんざ)いた。向かいの家の柿の木に群れていたヒヨドリが、荒々しい羽音とともに飛び立ったのだ。ヒヨドリにはいつも驚かされる。鳥たちが去った後には、何事もなかったように、また冬の静けさが戻っていた。真っ赤な木守柿が枝に灯っていた。

 もう何年も前に書いたものである。私はすでに東京を引き払って札幌にいる。北海道にもヒヨドリはいるらしいが、一度もお目にかかってはいない。ましてや柿はない。それゆえ、子守柿の風景などあり得ないのだ(北海道の伊達市には柿があることを最近になって知った)。もうこの断片は使えない、そんなことを思って愕然とする。

 別の断片である。

 酒の勢いを借り眠りについた。いつの間にか寝酒が習慣になっている。

 瞼(まぶた)の裏に光の明滅を感じ、まどろみの中で目が覚めた。

 枕元の時計を引き寄せると、午前一時を回っている。カーテンのわずかな隙間に月が見える。明るい月だなと眺めていると、月の周りの雲がパッと光った。雷光である。光だけで音がない。月と稲妻の不思議な光景に見入っていると、あっという間に分厚い雲が月を覆った。真夜中だというのに、積乱雲が発達しているのだ。

 近年、練馬では夜遅い時間になってから、しばしば強い雨が降る。新宿副都心の高層ビルが影響していると言われている。汐留に高層ビル群が出現してから、それがますます顕著になって来た、と囁(ささや)かれている。ヒートアイランド現象が、こんなところにも影響を及ぼしている。

 稲妻が雷鳴を伴い始めた。遠雷だと思っているうちに、大粒の雨が瓦屋根を叩き出した。ポツ、ポツという音が、ザーッという強い雨音に変わり、土の匂いが窓から流れ込んで来た。夏が終わると思った。かたわらの妻を見ると、静かな寝息を立てている。この暑い夏をよく乗り切ったなと、妻の寝顔を眺めながら思った。

 こんなスロースタートだと、四百字詰め原稿用紙換算で四、五十枚は簡単に超えそうである。これではいいエッセイにはなり得ない。かといって、これらの断片を反故(ほご)にしてしまう勇気がない。もう何年もの間、思い出したように読み直しては、手を加えているので、断片とはいえそれなりの愛着がある。そのうち、この書き出しに続く文章が書けるのではないか、そんな淡い期待がある。だが、もうこの文章の場所に私はいない。続きはもう書けないのだ。

 ただ、この文章の切れ端を生かす方法が、ひとつだけある。小説に仕立て上げることだ。同人誌の仲間からもよく言われる。

「あなたのエッセイ、もう小説の域になっているわよ。ストーリーを膨らませればいいのよ。あなたなら書けるわ」

 今までに何人もの人から、このようなことを言われてきた。

(書けるものなら、とっくに書いています)という思いを呑み込んで、

「そうですよね、やっぱり小説ですよね」

 と反応はするものの、

「……でも、どういうふうに書いたら小説になるのか、実のところ、自分にはよくわからないのです」

 正直なままを伝えるようにしている。

 パソコンの真っ白いディスプレイに酒臭いため息を吹きかけるだけで、それ以上先に進まない。書けないものは、どう足掻(あが)いても書けないのだ。物語が動き出さないのである。

 なにかいい方法はないものだろうか。


              平成二十五年十一月  小 山 次 男