Coffee Break Essay


 『ストーブのぬくもり』

 冬の朝、一番先に起きだすのは母であった。部屋の温度は氷点下である。昭和四十年代、北海道の家屋は、まだ耐寒構造が脆弱だった。厳寒期になると毛糸の帽子を被って寝なければならなかった。頭が寒くて夜中に目が覚めるのだ。

 ガラス窓には大きな氷の花が咲いた。それが朝陽を受けてキラキラと白銀に輝いている。凍える寒さの中、丹前を羽織った母が、薪ストーブの前にうずくまっている。マッチを擦る音がして、リンの香りが家の中にほのかに漂う。その香りを追うように燻された薪の匂いが重なってくる。冬の朝の匂いである。

 着替えを終えた母が、ストーブの前で温めてあった丹前を抱え、子供たちを起こしにくる。私は丹前に包まれたまま抱きかかえられ、ストーブの前に下ろされる。私の隣に妹が並ぶ。いつの間にかストーブを挟んだ向かいに父が陣取っている。寒さで歯がカチカチと鳴る。トントントンという軽快な音が台所に響く。見ると母の背が忙しそうに動いている。朝食と三人分の弁当を作っているのだ。北海道の片田舎には、はまだ学校給食がなかった。

 ストーブの優しい火照りに体がほぐれてくるころ、窓に咲いた氷の花が真ん中から融け始める。楕円形の穴が次第に広がり、外を覗くと朝陽にきらめく雪原の中で、放牧された牛や馬が背からもうもうと湯気を上げている。家のすぐ前が牧場で、その先に太平洋が広がっていた。

 ストーブの上で沸かしたお湯を、柄杓(ひしゃく)で琺瑯(ほうろう)引きの白い洗面器に移し、台所で顔を洗っていた。新築の公営住宅であったが、風呂も洗面所もなかった。母は、家族が顔を洗っている間、流しを明け渡さなければならず、その前に大方の台所作業を終えていた。

 北海道を離れて三十年になるが、冬になると当時の光景を思い出す。考えてみれば、母はあのころまだ三十代の半ばで、今の私よりもはるかに若い。子供を育てるために懸命に働く母親の姿は、四十年の歳月をへた今でも、深く心に刻まれている。母もまたそういう母親の姿を見て育ってきたに違いない。だから辛いことを当たり前のこととして受け入れていたのだろう。母親というものはえらいものだ、とつくづく思う。

 今、薪ストーブといえば、コテージや別荘で使うようなヨーロッパ風の鋼鉄製の重厚なイメージがある。当時の薪ストーブはブリキを厚めにした色気のないものであった。予約タイマーもないし、自動消火装置もない。火力の調節は、ストーブの正面にある小窓の開閉である。手入れをこまめにしていなければ、煙突から火の粉が飛び、火事の原因ともなりかねない。薪割り、灰のかき出し、煙突掃除、一冬を過ごすことは、大変な重労働であった。

 薪ストーブには、石炭や石油ストーブにはない独特の暖かみがあった。ガスストーブやエアコンでは体感できない、体の芯を暖める温もりである。さらに、衣類を乾かしたり、お湯を沸かしたり、牡丹餅の餡(あん)を作るのに、大きな鍋で何時間も小豆を煮ていた。ストーブの上ではよくスルメを焼いたり、干しイモを炙って食べたものだ。初夏には、物置にしまってあったストーブを外に出し、山から採ってきたフキやワラビを大鍋で茹でた。

 やがて薪ストーブは石炭に取って代わり、石油ストーブが登場し、セントラルヒーティングへと進化を遂げている。燃料は灯油だが、それぞれの部屋には小さな暖房機があり、スイチひとつで温風が出、床暖房も入っている。蛇口をひねるとお湯も出る時代となった。夢のような話である。

 私は高校から家を離れ、現在は東京に落ち着いている。妹は、大学から札幌にいる。私が東京に越した年、五十一歳で父が死に、それから二十六年、母はひとりで毎年の冬を越している。今年七十三歳になる。

 年間を通してストーブに火が入らないのは、三カ月に満たない。あの寒い冬の生活には戻りたくはないが、ストーブの温もりと薪の燃える匂いを懐かしく思い出す。

 ストーブの周りには、いつも家族がいた。


       平成二十年三月 春分  小 山 次 男